本日、毎月恒例投げ銭ジャズライブ
本日は、毎月恒例となっております彗莉(えり)ボーカル、早川由紀子ピアノ、ジャズライブをおこないます。もちろん、通常のドリンクチャージのみ、ミュージックチャージなしのライブですので、お気軽にいらしてくださいませ。お待ちしております。
8時半から2セットです。(よろしければ、演奏者たちにチップお願いします)
本日は、毎月恒例となっております彗莉(えり)ボーカル、早川由紀子ピアノ、ジャズライブをおこないます。もちろん、通常のドリンクチャージのみ、ミュージックチャージなしのライブですので、お気軽にいらしてくださいませ。お待ちしております。
8時半から2セットです。(よろしければ、演奏者たちにチップお願いします)
一生懸命やってるな、がんばってるな、という意気込みは伝わる。だからこそ、それで満足したいのだがなぜか、うーん、これはちょっと、と思うことがしばしばある。
例えば、クラシックのオーケストラの指揮でも、その指揮者の情熱や思いは痛いほど伝わるのだが、それがその曲とのバランスを超えてメロメロになっていて聴いていて辛くなることがある。つまり、その曲本来の姿を表現の過剰さが凌駕してしまい、それに聴く側がについていけなくなるのだ。
また、最近の焼酎のラベルであるが、カッコよくスタイリッシュにしようと考えるあまり、逆においおいこれやりすぎだよ、という妙なラベルをよく見かける。作った本人たちは満足なのであろうが、こちらとしてはお笑いとして受け止めていいのか、マジで受け止めていいのか困ってしまう。確かに、ミスマッチの面白さもあることにはあるが、それはかなりぎりぎりの線のセンスなので、そんな秀逸なミスマッチにはめったにお目にかからない。ここでもその本質と表現のあいだのバランスが重要なのだ。
あと、ツィッターのフォローが何千人とか、フェイスブックの友達が何百人とか、これって本来のソーシャルネットワークの姿なのか。だって、何千とかの情報ってどうやって自分の中で消化するのだろう。それに友達ってそんなにいるものなのか。子どもだって友達百人できるかな、って疑問に思ってるぐらいだし。もうこうなると、本来の趣旨を逸脱してしまい別の姿になっているとしか思えない。
さて、やりすぎているなー、と思ったのは他にもある。最近、何店かの店で餃子を食べていて思ったのだが、皮も自分で作っているし、タレも何種も用意しているし、焼き方も完璧、なのになんかなあ、と思ってしまった。それは、つまり餃子自体に味があり過ぎてくどいのだ。
まあ、好みの問題かもしれないが、僕は餃子自体は薄味でそれが酢醤油といっしょになって美味いのが餃子だと思っている。だから、餃子はいくつも数が食べれるし、ご飯にも合う。それが、餃子そのまま食べて味が濃いとなると、それはもはや餃子じゃなくなってしまっていないか。いろいろがんばっているから、つい餃子自体にも味を入れたくなるのだろうが、それでは皮、具材、焼き方、そして酢醤油というバランスが壊れてしまうはずだ。しかも、餃子自体に味が濃いのに、特製の別だれがってそんなにくどい味にして食べて美味いのか。僕には美味いとは思えなかった。
つまり、物事にはバランスがあるということ、だ。本質と表現の間には、やり方は一つではないだろう。ただし、ここからここまでの間で、というバランスの領域が必ずある。それを逸脱すれば本質は見えなくなる。クラシックでも酒のラベルでも、ソーシャルネットワークでも餃子でも、だ。大切なのは、ものの本質とはなにか、それに尽きる。もちろん、その本質を見つけるのが難しいのだけれども。でも、一ついえるのはそこに意識が払われないで、一生懸命やってます、がんばっています、というのは滑稽で見苦しい。なんでも、がむしゃらなら許される、というのはお門違いなのである。
僕が危惧するのは、これらひとつひとつの事象のことではない。がむしゃらで見えなくなってしまい本質がないがしろにされること、そこがいいじゃないか、いいじゃないか、という風潮で軽視されていることが多いということだ。まあ、餃子なんかは、本質逸脱したって美味ければ別のものとして認知されて評判になるかもしれない。だから、何度もいうが個々の事象がどう、ということではない。本質とはなにか、ということがまったくなしに物事が進むことがやばいのだ。
今日も震災の瓦礫搬入を受け入れないというニュースをやっていたが、反対している人は一生懸命なのだろう。だけれども、その本質はなんなのだろうか。それを、ちゃんと見据えて反対しているのだろうか。やりすぎてしまってはいないのだろうか。
本日ガージェリーエステラはいります。毎月二回のお楽しみ、ガージェリーの樽ですが今日はエールタイプのエステラです。素晴らしい味わいのこのビール、ぜひ飲みに来てくださいませ。
それと、本日のお通し、先の告知しちゃいます。実はガージェリービールさん(ビアスタイル21)と野方の和んスタイルさんと合同で、今度の日曜日にBBQを野川公園でおこなうのですが(すでに参加人数確定ずみで、締め切っております)、その時にだす予定の「イベリコ豚を使った豚汁」を今日、すこしだけ予行演習でお出ししちゃいます。
エステラとイベリコ豚汁、この組み合わせはゴージャスですねえ。ぜひ、この機会にお試しあれ!
では、本日もお待ちしております。
本日4日金曜から6日日曜までザジ、お休みします。7日月曜から営業しますのでよろしくお願いします。
今年はとにかく、ザジは企画が目白押し。5月はガージェリーと和んスタイルとの合同企画BBQ(すみません、すでに参加は締め切っております)があり、そして6月は年に一度の恒例行事、ザジ親睦旅行が今年も決行であります。
第四回ザジ親睦温泉旅行(11年目突入記念?)
日時6月30日土曜日から7月1日日曜日(一泊二日)
ザジの一年に一回の恒例行事、親睦温泉旅行を今年も決行。今回は第一回石和、第二回鬼怒川、第三回草津の過去三回とは、ちょっと違ったスペシャルな旅行を企画しました。
今回はなんと、箱根湯元温泉プラスイタリアン!グルメな温泉旅行であります。
まず、新宿からロマンスカーで箱根湯元にある旅館、「箱根の森おかだ」へ。ここは、男女とも内湯以外に6種類の屋天風呂があり、そこで日頃の疲れを癒していただきます。
その後、旅館からマイクロバスで芦ノ湖へ。芦ノ湖元箱根にあるイタリアンレストラン「ラ テラッツァ 芦ノ湖」で宴会。http://www.la-terrazza-ashinoko.co.jp/restaurant/index.html
このレストランのピッツァは最高に美味です。もちろん、パスタもそのほかの料理も抜群です。絶対にご満足いただけること間違いなし。
宴会終了後またマイクロバスにて湯元まで。そして、就寝までまたお風呂もよし、飲むもよし。
帰りは、各自、自由にしていただき、御殿場のアウトレットにいくもよし、ロープウェイを乗りに上まで行くもよし。また芦ノ湖を観光にいくもよし。 すぐに帰宅するもよし、となります。
ですので、今回は宿泊、レストランでの宴会、マイクロバス、行きの交通費まで含めて24000円!!と例年より安くなっております。(帰りの交通 費は各自お願いします)
参加費 大人 24000円
子ども4歳から6歳 6000円
子ども3歳まで 1000円
(※参加費をぎりぎりに抑えているので、万が一宴会で足がでたときは若干あとでお願いするかもしれません(多分大丈夫だと思いますが))
5月25日ごろまでに参加するかどうかを、ザジ伊藤までお願いします。
では、皆様今年も御参加よろしくお願いします。
最初に言ってしまうが、僕はカツ丼が好きである。嫌いではないから、あえて言いたいことがある。
ご存知、カツ丼とはとんかつを割りしたと卵でとじたものでどんぶりものの定番で、日本人で知らない人はまずいないのではないだろうか。今回は当然、このカツ丼のことで、ソースカツ丼や、デミグラカツ丼などの話ではない。まあ、多少はそれらにも関するとも言えなくはないが。
さて、なぜカツ丼の話、かというと最近あるチェーン店のカツ丼490円を食べてふと思ったのだ。カツ丼は490円のこれでいいのだ、と。
いきなりなにを言うのか、と思う方もいると思うが、結局カツ丼という食べ物は490円にすべて集約されている、と言っても過言ではないと今、僕は考えている。カツ丼が好きだからこそ、所詮カツ丼はそんなものだ、と言い切ってしまおう。
では、その理由なのだが、その前にそう考える一つのある僕個人の出来事があった。それは某中華屋が出しているカツ丼を食べてのことだ。
その中華屋はどこにでもある普通の町の中華屋だが、なぜかカツ丼が一番人気で、それは某有名評論家が絶賛したから、ということらしい。実際にその店に言ってみると、ほとんどの人がカツ丼を注文している、中華屋なのに。実際、別の日に僕は敢えてカレーライスを頼んだら、満員の店内でカツ丼以外を食べているのは僕だけであった。
さて、そのカツ丼であるが、値段もリーズナブルでカツ丼も美味しかった。普通に。そう、昔ながらの普通のカツ丼である。甘じょっぱい割りしたに卵がとじてある、グリーンピースがのった普通にうまいカツ丼、なのだ。
だから、このカツ丼に文句はない。いいじゃない、と思う。ただし、だ。なぜ、これを某有名評論家は絶賛するのか。それが理解できなかった。だって、この美味いカツ丼の味はそんなにとびぬけているのか、どこの店のカツ丼だって似た様なものじゃないか。
さて、ここでカツ丼は490円でいい、という最初の結論に戻る。カツ丼とはなにか。それを考えると、それはカツであってカツではない、ということだ。
美味いとんかつとは、豚の肉がいいかどうか、ということはさておき、揚げ方が重要なのは間違いない。カラッとそして、中はジューシーに火を通しすぎず絶妙なタイミングで揚げるからこそ、職人の技が勝負になる。衣がベタベタではだめだし、黒ずんでいてはだめだし、火が通り過ぎたら肉は硬いし、もちろん火の入りがよくなければ食べられないし。
ところが、カツ丼と言うのは、このとんかつの持ち味をある意味殺す食べ物なのだ。割りしたで泳がすのは結局カラッとあげた衣の意味を無くす(もちろんだからカツ丼の美味さがでるのだ、それは解っていてあえて書く)。そして、当然絶妙の火加減で揚げたとしても肉はだいたい均一に火が入っていく。もちろん、そこまで計算して早めに揚げて、割り下に通す火加減を計算して、なんて職人がいるのかもしれない。とはいっても、僕が食べたカツ丼はだいたい普通に火が入ってしまっているものばかりだったし、たとえ、いい火加減だとしても、もう一つ割り下という問題がある。
これは肉の良し悪し、にも関係する話だが、甘辛いという味覚は肉の良し悪しをそれほど気にならなくする、という効果があると思っている。しかも、衣が浸っていてカツ丼というのは、とんかつと比べれば、肉の味が引き立つ食べ物というわけではない。むしろ、その甘しょっぱい割り下、卵、カツの衣とその脂、そして豚とごはん、それが渾然一体となったところを味わうものであろう。だから、とんかつ、という食べ物とカツ丼はまったく味わっている部分が違う、と考えるべきなのだ。
だからこそ、中華屋のカツ丼が存在し、それが美味しいということなのだ。しかし、それはチェーン店のカツ丼も高級トンカツ屋のそれも、味わいという点ではさほど差はない。何度も言うが、豚の良し悪しや、使う材料に差はある。ただし、それが結果として大きな差になるとは、思えないのだ。それ故、僕は490円のカツ丼を食べていて、その某有名評論家の絶賛するカツ丼を思い出した。いっしょじゃねえか、この味は、と。
味覚に自信があるのだったらほんと、ブラインドテストでもやってその違いが解るのかね。僕からいわせれば某有名評論家はそのチェーン店のカツ丼も絶賛して欲しいものである。いや、僕ははっきり言う。某チェーン店490円のカツ丼はリーズナブルでマジで美味い。それがカツ丼、というものだからだ。
ザジで大変好評をいただいています、ガージェリービールでありますが、5月におこなわれる第三回GARGERYバーベキューに、野方のホルモン焼き「和ん スタイル」さん、神楽坂の「和飲和ん」さん、といっしょにバーザジも参加することに決定しました。
このバーベキューは樽のガージェリービールをサーバーを持ち込んで100リットル(飲み放題!)でおこなう、普通じゃ考えられない贅沢な催しです。仲良くしていただいているホルモン焼きの、和んスタイルさんが肉関係を焼く予定なのでこれも楽しみ!ザジとしても得意のイベリコねたで勝負しようか、と思っております。
日時
2012年5月13日(日)11:00~夕方 (雨天延期)
雨天時の予備日:
2012年5月27日(日)11:00~夕方 (雨天中止)
園内は大変広いです。時間に余裕を持ってお越しください。受付後(会費支払い後)は出入り自由です。
雨天延期、中止の場合、前日の15時までにお申込みの皆さんへメールで連絡します。
場所(アクセス)
野川公園バーベキュー広場
(東京都調布市野水一・二丁目、小金井市東町一丁目、三鷹市大沢二・三・六丁目)
» 野川公園 / 園内マップ
» 地図(Google Map)
電車でお越しの場合:
西武多摩川線「多磨」下車 徒歩10~15分
武蔵境駅から、10時50分発の西武多摩川線(是政行)に乗るとピッタリです。
バスでお越しの場合:
京王バス(調布-武蔵小金井)「野川公園一之橋」下車
小田急バス(三鷹-武蔵小金井)「野川公園一之橋」下車
小田急バス(三鷹-朝日町・朝日町三丁目・車返団地)「野川公園一之橋」下車
▼ 会費:お一人様 4,000円
ガージェリー飲み放題&BBQの基本的な食材、調味料、プラコップ、紙皿、割り箸はこちらで用意します。レジャーシートさえご持参いただければ、あとは手ぶらでも大丈夫です。
なお、ソフトドリンクのご用意はありません。
▼ 必要な持ち物:
▼ オススメの持ち物:
▼ 調理器具やキャンプ用品を持ち込まれる場合:
留意事項
当日の流れ
ザジとしては20名で参加しますので、参加希望の方はお早めにわたくし伊藤までご予約くださいませ。今回は合同での催しですので、20名以上の参加はできません。ですので、先着順といたしますのでご了承願います。
では、みんなで楽しいバーベキューをやりましょう!
(詳細はこちらのガージェリーのブログでもご覧いただけます)
今日は恒例、早川由紀子(ピアノ)&慧莉(ヴォーカル)、ジャズライブをおこないます。ミュージックチャージなし、(演奏後よければ500円以上のチップをお願いします)通常のドリンクチャージのみでライブをお楽しみいただけます。
8時半頃から2セットです。毎回いろいろな曲、アレンジで楽しませてくれる今までとは一味も二味もちがった個性溢れるジャズヴォーカルスタイルを聞かせてくれるお二人。今回もとても楽しみです。皆様、お待ちしております。

本日、ザジはガージェリーの日!エステラ、スタンバイしてまーす。
音楽評論を時々見ていると、音楽を聴いて魂を揺さぶられた、とか感動で打ちひしがれた、とか大げさな表現を見ることがあるが、正直、ずいぶん大仰な書き方をして、と常々思っていた。もちろん、自分も音楽を聴いて感動した、といえるような状況は何度も経験しているし、心に染み渡るような思いをしたことも幾度となくある。
しかし、本当のところ、その感動とは自分のその時の精神状況や、おかれている環境、疲労度など、その音楽以外の自分自身が多少なりとも影響しているのではないか、と懐疑的になることもある。つまり、音楽を聴いて泣く、なんて自分の感傷性とシンクロしたからなんじゃないか、と思っていたのだ。(もちろん感傷性にシンクロさせる音楽の力、というのの凄さも解っているが)
思えば、僕がクラシックを聴き始めた中学、高校時代は曲を聴きながら涙する、ということがちょくちょくあった。思春期で多感な頃の自分は、どうしようもない不安や、届かぬ思い、漠然とした未来への恐れ、などぐちゃぐちゃな思春期特有の自我を聴く曲、聴く曲にあてはめ、そのずぶずぶのセンチメンタルな気持ちにぴったりのものを探して泣いていたように思う。
言ってみれば、その演奏が良かろうが悪かろうがどうでもいいわけで、ショパンの感傷性に泣き、ドヴュッシーのクリスタルな響に泣き、マーラーの深刻でドラマティックな展開に泣いた。
そう、あの当時、演奏の良し悪しなんてほんとうはなにも解っていなかった。解っていると思い込んでいただけで、評論で気に入ったものをさも自分の評のようにえらそうな口をたたいていただけだった。だから、バーンスタインのマーラーがどれほど凄かったのか、中学時代に親にせがんで連れて行ってもらったニューヨークフィルとの演奏会も、もの凄く感動したのは事実だが、どれだけのことを理解していたのかは、今となっては怪しいものだ。
前置きが長くなったが、今朝、僕はそんな感傷性や、昔のノスタルジックな思い出とは無縁のもの凄い体験をした。これが芸術の力なのか、というような。
大仰に書いてもいい、そう言いきれるちょっと稀有な体験である。それは、バーンスタインがイスラエルフィルと1985年に演奏したマーラーの9番を聴いていてのこと、だ。
マーラーの9番はここ2年ぐらい集中的に聴いてきた曲だ。CDでかなりいろいろな演奏を聴いてきた。人からも借りて様々な指揮者、楽団の演奏を吟味してきた。ラトル、カラヤン、クーベリック、ジュリーニ、アバド、ベルティーニ、テンシュテット、それにバーンスタインETC。バーンスタインはスタジオ録音のコンセルトヘボウとのと、ベルインフィルとのライブも両方聴いた。そして、この曲はある程度自分が納得できるぐらいに理解したつもりだった。
もちろん、好きな演奏あれば、嫌いな演奏もあるし、素晴らしいと思えるものもあれば、アホかといってしまうほどくだらないと思った演奏もある。しかし、そこには昔の僕が聴いていたような自分の感傷性に照らし合わせて聴く、というような行為や、ノスタルジーで聴くというようなことは徹底的に排除してきたつもりだ。あくまでも、曲を冷静に聴き、そこから曲本来の、いや指揮者とオーケストラがマーラーをどう引きだすのか、という点を集中して聴いてきた。
だから、泣く、なんてもうありえないのか、ぐらいに思っていた。いや、じわっと「あっ、いいなあ」と思いちょっと涙腺が緩んだ演奏は確かにあった。あまりの優美で美しさにうっとりとして涙が少しだけでた、ということもここ最近あったのは事実だ。
でも、今朝は違っていたのだ。このバーンスタイン、イスラエルフィルの演奏は一楽章からもの凄い気迫と緊張感が伝わってきた。これは確かに凄い、最初は細部細部の表現の濃さに圧倒されて、こんな演奏が過去にあったのかと思いながら、深く深く曲に入り込んでいった。バーンスタインの解釈に全身全霊で演奏するオーケストラ。まるで生き物のようにうねり、身もだえ、咆哮する様はこれが本当に指揮者とオーケストラのだす音なのか、とただただ圧倒されていく。
この時点で、この演奏はただものじゃない、ということが解る。第二楽章、第三楽章とその思いはさらに強くなり、これはとんでもない記録なんだ、それを僕は今聴いているのかと。マーラーの9番はこんなに優美で、グロテスクで、コケティッシュで、野蛮で、軽やかで、深遠で、ありとあらゆる混沌とした世界観がつめこまれ、それをバーンスタインは凄まじい情報量の多さでイスラエルフィルを使って語りかけてくる。こんなことができるのか、そんなことを感じて聴いていた。第三楽章までは。
それは突如きた。第四楽章のアダージョは、ストリングスからはじまるゆったりと流れる楽章であるが、最初はああ、なんて厚くて暖かい音で包み込むような弦なんだろう、と思いながら聴いていた。そしてその弦が上昇していく流れに身をふっとまかせた瞬間、なんということが僕はあっという間に号泣していたのだ。自分で、一瞬なにがおこったのかわからないぐらい泣いた。それは悲しいとか、嬉しいとか、そんな単純な感情じゃなかった。もう、ただただ涙が当方もなく流れ出た。
ああ、これなのか、芸術の持つとてつもない力とは、それに自分は今ふれてしまったのだ、とはっきり思った。なにか、自分が生きているという実存がその音楽によって許してもらったといったらいいのか、なにか宗教がかっているようだが、ほんとうに自分の根源的な部分にダイレクトに刺さったというか、ちょっと言葉では説明できない異様な体験をしたのだ。
マーラーの9番は長い曲で、このバーンスタインの演奏は1時間半ちかくあり、第四楽章は30分もある。でも、第四楽章は特に、僕はまるで金縛りにあったかのように身動きひとつできなくなってしまった。途中何度も、涙が流れた。なんで、47歳にもなった自分がこんなに泣いているのかがまったく理解できなかった。でも、一つ解ったことがある、これが魂を揺さぶられ、感動にうちひしがれた、ということなんだと。最後に、バイオリンが消えるように終わるエンディングのあとも椅子をたつことができなかった。ああ、この瞬間のために僕は、クラシックを聴いてきたのか、と心からそう思った。
それは、紛れもない事実で、真の音楽、芸術の力、それはめったに出会うことはないが、やはりあるのだ、と。生きている意味、実存、そして芸術とはなぜあるのか、ようやく少し僕は理解した、ようである。
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