ジャズ50バカその16~25

ジャズ50バカ、小ネタ集1625

 

16. ジャケ写でちょっと可愛い若いお姉さんがピアノやサックス吹いているとつい買ってしまうバカ

 

 だったら、無理しないでAKBとか行けばいいじゃん。ほんとは好きなんでしょ、アイドルが。

 

17. ジャズの投げ銭ライブでビール一杯しかオーダーしないで帰るバカ

 

 いや、別にいいんだけどさ。ちょっとは店の側も考えてよ。安く聴けてラッキー、なんて思うのかね。

 

18. ジャズはレコードで聴かないと、と言い続けるバカ

 

 たぶん、オーディオファンなんだろうけど、それだとレコード時代のジャズだけ聴くしかないわけでさ、今の新しいジャズなんて聴くことできないじゃない。レコードは確かに音いいかもしれないけれどね、あまりにレコード、レコード言ってるのを聞くと、こりゃ宗教だと思うのだが。

 

19. スタンダードしか演奏させない、歌わせない、ライブハウスのバカ

 

 たしかにお客受けはスタンダードがいいのだろうけど、そればかりミュージシャンに要求してやらせているから、ジャズがつまらなくなるんだよ。誰も冒険、挑戦しなくなるんだよ。ジャズが保守的になってどうする!

 

20. 俺は自宅に1000枚以上レコードを持っているとか、CDを2000枚は買ったよ、とか物量自慢するバカ

 

 よくお集めになりました。そりゃ凄い、凄い。って、言って欲しいのかな。人と比べてどうのこうのって、そんなことでしか自分を認識できないとしたら、それは辛いねえ、ご愁傷様。

 

21. とにかく人の知らないある意味B級、C級のアルバムを見つけてきては、それを自慢するバカ

 

 結局なんだけど、なぜB級になったか、C級になったかを考えて見て欲しいのだが。もちろん、そういう中に自分の宝を見つけるのはいいのさ。でも、「君、あれ知らないの?」みたいな、そんなとこばかり人に自慢したがるオヤジ、ほんとウザイんだよな。自分だけの楽しみにして、人に言わんでくれ、そんな駄盤自慢。

 

22. いいジャズってさ、聴いていると酒がスイスイ飲めちゃうんだよ。酒がどうも進まないのはダメなジャズなんだな、と言うバカ

 

 すいません、それは多分酔っ払っているからだと思います。僕はダメなジャズだと、ああ、これなら真面目に聴かなくていいや、と思い酒がスイスイ飲めます。

 

23. テクニックがある、なし、だけでジャズミュージシャンを評価するバカ

 

 テクニックは表現したいものに必要なら意味があるけど、表現したいものにそこまでのテクニックがいらなければ、過剰なテクニックはウルサイだけ。キューバーのゴンサロ・ルバルカバというバカテクのピアニストがいるが、デビューの頃のアルバムなんて、ただテクニックひけらかしで、ぜんぜん面白くなかったけどね。でもすぐ、あいつは上手い、下手と言いたがるオヤジが多いね。いったい何をききたいのか、音楽?それともテクニック?

 

24. ライブ中に机を指や箸とかで叩いて、ぜんぜん正確じゃないリズムを刻むバカ

 

 うるさいんだよ。下手くそなリズムに気が散って、ドラマーのリズムに乗れないじゃないか。

 

25. 隣に女性がいると、ついジャズのウンチクを語りたがるバカ

 

 今時、ジャズ語ってもモテないって。「まあ、おじ様ってジャズに詳しいんですね、素敵」なんてあるわけないでしょ。きっと心の中で、「別にそんな話聞きたくもないしー、聞いたところでよくわかんないしー、それよか美味しいものでもご馳走してくれないかなー」とイライラしながら思っているに違いないのにね。ざんねーん。

 

ジャズ50バカその15

15. 日本人のジャズなんて聴く必要がない、日本のジャズミュージシャンなんてあれはジャズになってない、と言うバカ

 

 ジャズ原理主義とでも言うのか、こういうことを偉そうにのたまうオヤジ達もまだまだいる。というか、高名なジャズ評論家も言っていたしね、マジで。

 ジャズというのは米国で生まれ米国で流行した音楽、だから米国のミュージシャン以外は亜流で本家の真似事に過ぎない。あのリズム感は、米国のジャズマン(特に黒人だそうで)じゃないと出せない味なんだよ。挙句に、「ジャズってさ、僕は70年代から80年代にアメリカに行ってね、そこのライブハウスで聴いたんだけど、当時の現地のピアニストに比べたら日本人の辛島だとか、本田とか二流、三流だからね、やっぱりジャズってそういうもんよ」と丁寧にご説明してくれたおじ様もおりましたよ、過去に。

 まあ、ね、その人がそう思いたいならそれもいいです、が、ジャズって本当に米国のジャズだけがいいの?というか、米国のジャズミュージシャンだって実はピンきりだし、様々なスタイルのミュージシャンがいるしね、一概にそんな乱暴な言い方は本当はできないはず。

 さらに、ジャズというのは語法というか、音楽の方法論に過ぎない、と僕は思っている。どういうことかというと、コード、スケールなどの技法を用いて、それにリズムが加わりその中でテーマから自由に発想してインプロビゼーション(アドリブね)をする音楽、というのがジャズの方法論であり、その方法論を米国以外の国、民族が独自の発想で昇華していく、というのが今のジャズではないのか。だから、フランス人のジャズ、北欧のジャズ、イタリアのジャズ、などなどその国ならではの感性のジャズがあるのよ。だから、日本には日本人ならではの、日本人の感性でしか表現できないジャズがある、はずなんだ。

 言葉にエスペラント語というのがある。つまり世界共通言語というのを目指して作られた言葉なのだが、ジャズというのはもはや音楽のエスペラントではないか、と僕は思う。その語法を使えば、どこの国の人であろうと民族であろうと、ジャズを演奏することができる、そしてその文化ゆえのジャズ、というものができる可能性がある、のではないか。

 もちろん、ジャズのバックボーンを知ることは重要だし、だから米国のジャズ、というものが意味を失う、というものではない。しかし、新しい可能性を秘めた米国以外のジャズ、を否定してしまっては、ジャズ、という本来の姿勢、あり方、そのものを否定することになるのではないか。そう、何度も書いているが、新しいものを取り込んで、古いものをぶち壊し進んでいく、それがジャズのあり方、だと僕は思うからだ。

実際、ミシェル・ペトルチアーニというピアニストがいたが、彼はフランスから出てきたが、それまでの米国のピアニストにはだせない独特のセンスと、斬新なアドリブで一斉を風靡した。また、キューバにも凄いジャズミュージシャンはたくさんいるし、キューバ人でしかありえないジャズをやっている。北欧でも、イタリアでも、ベルギーでも。

 だから、日本人は胸を張って日本人ならではのジャズをやればいい。そのかわり、徹底的に日本人ゆえのオリジナリティ、アイデンティティをジャズにぶち込んでやればいいんだ。変に、原理主義的にひよったって、それこそ、二流、三流ってことになる。でも、ジャズの新たな地平、それを日本人が切り開くかもしれないじゃないか。僕はそういう期待もあって日本人のジャズを聴いているんだ。

 結局、日本人のジャズなんて、というようなこと言ってるやつって、実はブラインドテストしたら日本人だか、アメリカ人だか、フランス人だかわからないんじゃないの?これもいつも言うことだけど、そういうことを言って、自分が聴いてきたものだけがいいんだ、というくだらん自我に固執してるだけ、っていう気がするのだがね。

 とにかく、ジャズというのは、そのぐらい応用力がって、ある意味アバウトで、だからこそ、グローバルな音楽言語なんだ。いや、そうじゃなきゃいけない。伝統芸能じゃないのだから。

ジャズ50バカその14

14.   Tシャツにジーパン、ヨレヨレの姿、格好だとジャズっぽくて、オシャレにスーツなんぞでキメてステージに立つとそれだけでダメだと決め付けるバカ



 今の若い人たちからするとなんのことやら、と思うだろうが、80年代に彗星のごとく現れたウィントン・マルサリスというジャズトランペッターが売れ出した頃、彼はビシっとスーツ姿でステージに立っていたのだが、なぜか彼の音楽ではなく「今時、スーツ姿でカッコつけるなんて、あんなのジャズじゃないね」という声をよく聞いた。これ、ほんとに僕のまわりだけではなく、ジャズ雑誌なんぞでも読んだ記憶があるから、マルサリスのやっていたジャズにも、もちろん気に食わない人たちが揶揄していたのだろうが、当時から「え、ジャズってお洒落してステージ立っちゃいけないのか?」と僕は疑問に思っていた。

 もちろん、それなりに時代時代でオシャレにキメていた人たちもいたし、マイルスはファッションリーダー的に服装もどんどん変化していった。

 それでも、特に日本人の一部のジャズファンって「あいつらチャラチャラお洒落して出てるけど、演奏がたいしたことないからそういうとこで誤魔化してんだよ」みたいなこと言うんだよなあ。なんか、ジャズは今でもTシャツにジーンズだけでやってるとストイックに音楽に向かいあっている、みたいな、ね。

 つまり、そういうこと言っている人たちって、要はジャズを真剣にやるのにオシャレは必要ない、と言いたいのだろうがまさにその通りで、裏返せば、実はだからジャズマンがオシャレしようが、ピアスしようが、音楽の本質には関係ないってことなんだけど。

 それに、またそういうこと言っている奴の服のセンスがダメダメでね、ジャズ聴きにくるオヤジどもって同じようにヨレヨレのシャツにジーンズみたいのが多い、と思うのは僕だけか。

 なにが言いたいかというとだね、もう今ジャズがここまで若い人に聴いてもらえず、老人の楽しみみたいな小さな世界にしちまっているのは、オシャレじゃない、というのも一つの原因だと僕は思う。実際、何度も言うが、マイルスってほんとその時代、その時代でファッションも変化していって、オシャレにも凄い気をつかっていたのは良くわかる。そして、それは彼の音楽の本質を邪魔するわけではなく、むしろ相乗効果で彼のステージでの音楽に華を添え、そしてすべてを包括したエンターテインメント、芸術になっていたのではないだろうか。つまり、音楽ってその人の存在、それが強烈に色濃く出てこそオリジナリティなのだ。だから、オシャレしないという選択もジャズマンにとってあり、だが、マイルスイズムを継承して、そういう個性を作っていく、それもあり、だ。

 僕としては、せっかく自分が自己主張するステージで、ジャズ自体が強烈な個性と主張があるのは前提だが、そこにその人なりのオシャレな服装や雰囲気もあったらいいじゃないか、と思う。本質はオシャレで捻じ曲げられることではなく、服装で演奏の善し悪しが決まるわけでもない。だから、逆に、目いっぱいオシャレしたっていいじゃないか。

 これは当たり前だが、オシャレにキメて雰囲気だけのジャズ、っていうのではなくそこは勘違いしないで欲しい。でも、もう汗臭いTシャツ姿でジャズというのも、別の意味でステレオタイプ的なジャズマンの姿、という感じもしないでもない。ストイックはいいけどさ、若い人が誰も聴かないで、老人ホームでやる音楽がジャズになったらそれは寒いじゃないですか。若い人にもアピールする魅力、それも考える意味で、僕はこれからジャズマンがオシャレ、いいと思うけど。どう?

ジャズ50バカその13

13. 若いのに老成してまとまった、ある意味優等生なジャズを演奏しているバカ

 

 

 ジャズを演奏する、ミュージシャンたちはどういう意味で考え、どういう捉え方をして対峙しているのだろうか。それはやはり、過去の偉大なジャズミュージシャンが対峙してきた姿勢を見るのが一番だろう。

 何度も僕は言い続けているが、マイルスというのは、そのジャズを体現してきた第一人者であると僕は思っているし、その彼の姿勢こそがジャズだと信じて疑わない。もちろん、パーカーだってエヴァンスだって、エリントンだってガーランドだって、マルサリスだって皆、ジャズをジャズとして成り立たせている人々である。ただ、マイルスほど、ジャズという概念を人生で体現した者はいないのではないか、いや、時代の中でジャズのあるべき姿を追い求めた姿勢というのか、彼の生き方がジャズではないか、と僕は思っている。

 なぜなら、一番最初にマイルスに触れた項を書いたのだが、そこで僕が言ったマイルスとは、壊して進む、という一言で説明したように既存の世界をぶち壊して新たな世界を開いていく姿勢こそ、ジャズだ、と僕は思うからだ。

 つまり、ジャズの歴史を紐解けば、白人の世界に奴隷として連れてこられた黒人がアンチテーゼのごとく始めた音楽に起因し、そしてダンスミュージックとして成り立っていた音楽に踊れないモダンジャズ、バップを作り出し、そしてそのバップに飽き足らず、モードへ、フリーへ、そして様々なスケール、和声へと進化していったのが、雑に簡単に説明するところの流れである。それは、当然だが、既存の音楽を壊して新しいものを作り、それをまた否定して新しい世界へ、という繰り返しなのだ。

 考えてみれば、当たり前のことである。マイルスはまさに人生でそれを体現したのだが(バップからモード、そしてフリー、ファンク、ロック、ヒップホップまで一人のミュージシャンが歴史の中で体現したのは彼以外いまい)、芸術とは本来そういう行為であろう。マイルスと同じようにひとりでそれを体現したのはピカソがまさにそうであるように、既存のものを壊して進む、ブレイクスルーなくして芸術など有り得ない、と言い切っていいと思う。

 そして、ジャズがジャズたる意味というのは、まさに既存のモノに対してのアンチテーゼでありそこから生み出される熱や衝動、そして新たな地平というのもだろう。それを目指すからジャズミュージシャンではないのか。

 ところが、だ、若い20代のミュージシャンがまったく挑戦も追求もなく使い古された語法でバップをなぞるようにやっている。もちろん、そうじゃなく自分なりの世界を追求している奴らもいるのは知っているが、ほんと、お前らいくつだ、というような老成しきったオーセンティックなジャズを20代のミュージシャンの演奏で聴かされると、いったいなんのためにジャズをやっているのか、と問い詰めてみたいのだ。

 そこには、若者特有の発露もなく、熱もなく、挑戦する青臭さもなく、ただ死臭のただよう古臭くてカビの生えたような、手垢で汚れたようなフレーズ満載で、馬鹿じゃなかろうか、と僕は思うね。お前ら、どんなに頑張ったってガーランドにもなれんし、パーカーにもなれんのだ。ウェスの足元にも及ばんし、ロリンズ、ゲッツに絶対に並ぶこともできないんだよ。

 当然だ、だって一生懸命真似事したってね、どんなに頑張ったって二番煎じだろ。もちろん、勉強にコピーして完全にものにしてから自分らしい世界へ、というのは解からんでもない。だけどね、だいたい、聴いていると同じようなフレーズ弾いたり吹いたりして、本人は偉大な先人と同じ気になって酔ってるだけなんだよな。

 そこには、何度も言うように、既存のものをぶち壊す情熱も迫力も、青臭い若者特有の意地もなにも感じないのだ。ただ、あるのは真似事に過ぎない、ちょっとお上手なジャズっぽいもの、それだけだ。

 いや、いずれ、彼らも見つけるさ、若いからそれでいいんだ、という声もあるだろう。僕はそうは思わない。初めに強い意思で、こんなジジイたちの世界なんか糞くらえだ、俺が世界を変えてやる、って奴がジャズを、新たな地平を切り開くもんなんだよ。だって、先人たちを見ろよ。みんな、それをやって偉大なミュージシャンなんじゃないか。マイルスじゃなくても、エヴァンスだって、パーカーだって、メルドーだって。違うかい?それとも、若くして古き良きジャズ保存協会として生きる覚悟でやっています、とでもいうのか。それなら僕は文句は言わんがね。

ジャズ50バカその12

12. ジャズ雑誌のCD評ばかり気にして購入するバカ

 

今更という感もあるが、もう廃刊になった某ジャズ雑誌のゴールドディスクなる選定、これがかなりの長いことジャズのレコード、CDの評価の中心となり売上を左右させるぐらいの権威となっていた時代があった。当然、ゴールドディスクだから、といって鵜呑みにして購入して、ゴールドディスクだからこれはいいのだ、と思い込んでいた人たちがたくさんいたのだが、これがかなり胡散臭い基準で選定されていたのは、今では周知の事実だろう(たぶんね)。

 つまり、この某雑誌の広告にどれだけレコード会社、またはそのCDの本人が金をだしたか、それによって選定されていた、というのは有名な話なのだ。まあ、廃刊前の某雑誌で見開きの大広告打っているミュージシャンのCDは必ずゴールドディスクであった。まあ、そんなことしていたから結局廃刊になるのだろうが、それにしてもよくあんなインチキが権威になっていたのか、と思うとそれが日本のジャズ評論のレベルの低さなんだろうと思わざる得ない。

 そりゃそうだろう、金多く出したのをゴールドディスクにするのなら、そんなもの評論でもなんでもないし、実際なんでこんなレベルの低いものがと思うのがやたらめったらゴールドだったのだから。もちろん、ちゃんとしたものにゴールドというのもあっただろうがね、結局のところ、これはジャズに限らず、クラシックでも映画でも資本主義の世では、まともな評論なんてものはできないということなのか、とすら思ってしまう。

 というか、音楽なんて聴き手がいいか、悪いかだけであって、先ず聴いてみて自分がどう感じるかが一番だろう。人の評価なんてどうでもいいっちゃあ、どうでもいいはず。ところが、これはゴールドディスクだから、といっただけで「これはいいに決まっている」と思って聴いちゃう人がいるんだねえ。

 僕としては聴く必要がない、と最初からいえるものは絶対にない、と思っている。人がどう言おうと自分が聴いてみてどうか、なのであって、聴かないうちはどんな評論も鵜呑みにしないよう肝に銘じている。実際、これは素晴らしい、と言っていたので聴いてみたら自分としては超つまらないもの、逆にこれはたいしたレベルではない、と評論家が言っていたものがずっと宝物のようなアルバムになった、というものもあるからだ。

 僕がサラリーマンだった頃、僕の勤めていた会社の社長が僕に尋ねてきたことがあった。僕が会社の中でクラシックが好きだというのを知って(ジャズだけではなくクラシックも僕はかなり好きで聴いている)、昼休みに呼び出されて言われたのだがそれは「君、今度チャイコフスキーの5番のCDを買いたいのだがどれがいいのかね」という内容だった。僕は「どれが、と言われましてもご自分でお聴きになっていいと思わるものがいいのではないかと・・」と言うと社長は「それがわからんから聞いているんじゃないか、どれがいいんだね」ときた。じゃあと、これこれの指揮のこれこれのオーケストラの5番はどうでしょうと勧めると、そうか、と言ってメモを取った。

 それから何日かたって、また社長が僕のところにきて「君、この前勧めてくれたあのCD買ったのだがね、そのあとクラシックのガイドブックをみたらあれはダメな演奏だって書いてあったぞ、なにを勧めるんだね」と怒っていた。

 こういうバカがいるのだ、本当に。ただ権威だけを鵜呑みにして、自分の趣味の世界ですら良い、悪いもわからず「これはいいものだからいいのだ」とそれだけで安心する。あの社長は本当にバカだが、ある意味可哀想な人でもあった。自分で心からいいと思えるもの、それを一生知らずに生きていくのだろうから。

 つまりこれこそ、日本人的なんだろうとも思うのだが、結局、趣味の世界ですら周りの目を気にして、これは皆がいいといっているからいいんだよね、と、おどおどしているような人が多すぎる気がする。ゴールドディスクとはそんな日本人にうまくマッチしたシステムだったのだろう。某雑誌廃刊後もやはりCD評が気になって仕方がない人がたくさんいるだろう。自分で決めなくても、これは間違いないと太鼓判おしてくれて、さぞかし安心なんだろうねえ。ああ、くだらねえ。音楽ぐらい自分の我を通したって良さそうなものなのに。

 結局、国民性ってこんなところにまで影響しているわけで、僕が一番嫌な部分でもあるのだ、集団、組織の意思優先で、自己決定が希薄な日本人的生き方ってやつが。みんなで同じもの聴いてみんなでそれをいいと言う、そうしてりゃあ誰からも後ろ指差されないで安心安心、常にマジョリティ側にいないとね。ゴールドディスクはその象徴、透けて見えるぜ、ああバカバカしい。

ジャズ50バカその11

11. ジャズは先ずバップが演奏できないとダメだね、とミュージシャンでもないのに偉そうに言うバカ

 

 先に説明するがビ・バップ、通称バップというのはモダンジャズの始まりのジャズの演奏様式である。つまり、モダンジャズ全盛の1940年代から1960年代ぐらいまで頻繁に行われたジャズの形態なのだが、当然ジャズの基本というのはあながち間違いではないだろう。

 なぜなら、その後のジャズ、例えばモードやフリーや現代のジャズも確かにバップがマンネリ化して、さらに違う表現形態を追求したもの、だからだ。そして、その過渡期にあったミュージシャンたち、エヴァンスでもマイルスでも、キースでもチックでも、みんなバップの洗礼を受け、その後バップではない表現を見つけていったのだ。

 だからだろうけど「やっぱりね、バップをちゃんと弾けないやつがほかの事やったって、そんなジャズはダメだね」というオヤジたちは多い。まあ、そういうことを言って、なんか威張ってみたいのだろうが、果たして現代のミュージシャンにもそんなこと言っていいのだろうか。

 先ほども書いたが、バップがマンネリ化した過渡期のミュージシャンたちは、バップ演奏に飽き足らずにほかの表現にいくわけでね、今の若いミュージシャンはもうエヴァンス以降、というかバップ以降の演奏様式からジャズに入っている人もたくさんいるのだ。そういうミュージシャンたちは当然バップを上手に演奏することより、もっとほかの表現を模索して、新しいジャズを作ろうとしているわけ。だから、今更バップを上手に演奏しようとは思っていないのだよ。

 そういう人たちにさ、またもやバカの一つ覚えのように「バップがちゃんとできないと」なんて偉そうに言う輩がいまだに多いのだから始末に負えない。

 個人的な思いを言わせてもらえば、バップはジャズの通過点に過ぎず、今のジャズミュージシャンが演奏する必然を僕は感じない。だって、明らかにバップはやり尽くされてマンネリ化して、誰がやっても同じようになっていったからエヴァンスもマイルスもコルトレーンも新しい表現を求めたわけ。それを、なぜ21世紀にもなってまだバップなんだか。いや、バップが好きだからバップをやり続ける、というミュージシャンはいいけどね、現代のジャズミュージシャンがオリジナルな表現のためにバップではないジャズを演奏しているのに、バップも弾けないくせに、とバカオヤジどもが楽器も弾けないくせに言い続けているのはほんと失礼な話である。

 まあ、その弾けないくせにって言われているピアニストが「じゃあ、バップやってみましょうか」って演奏したらけっこう弾けるのかもしれない。でもね、それはバップが弾けるか、弾けないか、でその人の技量を測るのではなく、その人の表現したいものがどうか、そのためのテクニックは十分かどうか、ということでしょ。表現したい方法がバップじゃなければバップをうまくできなくたって別にいいのよ、当たり前の話なんだけどね。

 これも、ほかの項で書いていることと一緒になるが、バップ、バップとオヤジどもがわめくのは、結局てめえらがバップしか知らない、解らない、楽しめない、ということに尽きるのだ。だから、新興勢力のほかのジャズ表現を目の敵にして、そういうことを言って溜飲を下げるという、程度の低いお話なのである。

 日本のジャズの不幸はつまるところ、この手のバカオヤジどもに問題がある、と僕は思うがね。

 

ジャズ50バカその10

10. ジャズは歴史聴きするべき、と今でも初心者に勧めるバカ

 

 ジャズの歴史聴き、お解りだろうか。ジャズを古い順から聴いていく、ということなのだが、よくジャズのガイドブックなるものを見てみるとよく解る。ジャズの歴史に沿って一番古いものから現代に向かってその時代の代表的なアルバムが紹介されているはずだ。

 または、たとえばマイルス・デイヴィスなら最初のリーダーアルバム、クールの誕生から順にウォーキン、クッキン、ラウンド・アバウト・ミッドナイト、カインド・オブ・ブルー、(たくさんあるので、端折る)マイ・ファニー・ヴァレンタイン、ネフェルティティ、ビッチェズ・ブリュー、オン・ザコーナー、デコイ、ドゥ・バップまで、みたいに、とにかく時系列順に古い方から聴いていくことを歴史聴きと言うのである。

 これ、たしかにジャズがどう発展していったか、もしくは、一人のミュージシャンがどのように音楽的変遷を辿ったか、というのを理解するにはとてもいい聴き方だとは思う

 ただね、ジャズを初心者が聴くときに、この現代でこんな教義的聴き方って硬っ苦しいというか、お勉強的で、若い人がジャズ離れしちゃう原因のひとつにもなってる気がしてならないのよ。

 だってね、今や、ジャズってどこから聴いたっていいのであって、それがその人にとってのいい音楽体験なんでね、ジャズはそれじゃあ理解できない、というようなものじゃないんだと思う。

 それに、歴史聴き勧めるオヤジって、だいたい実は現代のジャズなんてところまでは聴いてなくてさ、マイルスの最後のアルバムあたりなんてろくに聴いていないくせに、バカの一つ覚えのように「マイルスはクールの誕生から聴かないと」と言うのだ。

 それはなぜなのか、と言えば、自分がそういう順番に時代のなかでマイルスなり、ジャズを聴いていったからでね、その自分と同じ音楽体験をしないとジャズはわからんよ、という個人的奢りとちっちゃな自意識を必死に守る、という(ほかの項でも同じこと書いているが)つまらん見栄に過ぎないと僕は思うね。

 だいたい、その同時代にタイムリーで聴くというのはさ、今の若い人には無理なことであって、しかもジャズ自体は今でも実は進んでいる音楽であってね、今の人間には今の時代精神じゃないと理解できないこともあるわけ。当然、その当時の時代の空気が解らないとその当時の音楽をパーフェクトに理解することはできない、という裏返しでもある。だからこそ、歴史聴きを勧めても、その当時にジャズを聴いてきた人と今、追従して歴史順にジャズを聴いても同じ感覚になれる訳はないと僕は考えている。

 僕としては、まず最初にジャズを聴いたことのない人に聴いてもらいたいのは、今のジャズだ。この現代に現代人としてやっているジャズを聴いて、今僕らが抱えているなにかを、ジャズを通して感じて欲しいのだ。

 なぜなら、50年前だって、当時の若者はその当時のジャズからそういう煮えたぎった時代のどうしようもない感情をジャズを通して感じていたはずだから。そして、だからこそジャズは生きた音楽として、その時代に存在したんだ。

 それを、歴史聴きみたいことにこだわってしまっては、ジャズはたんなる伝統芸能になってしまってね、過去の演奏が保存されているアーカイブからただ取り出して鑑賞するという老人の楽しみに化してしまうのだよ。

 ジャズとは、ということは何度も僕の考えをこのジャズバカで書いているが、とにかく今の表出、それに尽きると僕は思っている。だから、歴史聴きなんてクソくらえ、でいいのだ。マイルスも、チャーリーパーカーも知らなくたっていいじゃない、最初は。菊地成孔にグッとくる若者がたくさんいると思うけど、ジャズをお勉強しながらチャーリー・パーカーからマイルス、エヴァンスなんて順で聴いていくより、その方がジャズを今体感していると僕は思う。今、現代のミュージシャンがジャズをどう考え、ジャズで何を表現しようとしているのか、それを聴くのが今を生きる人間のジャズ体験、というものではないのか。

 もちろん、今のジャズから興味を持って歴史を知ろうとするのは悪いことではない。また、たまたま出会ったのがエヴァンスのジャズで、それから現代のジャズまで興味を持つのもいい。そう、人によって音楽なんてどう聴いたって自由なもの、というのが当たり前だが結論。そして、歴史聴きなんて教義的なジャズ体験より、僕としては先ず、今のジャズを聴いてジャズってかび臭いものじゃない、実は新鮮な生々しいものなんだ、ということをこれから聴く人に解ってほしい、それが僕の本音だ。

 

ジャズ50バカその9

9. スタンダードジャズ(それも彼らが勝手にスタンダードだと思っている曲)以外はジャズとして認めないバカ

 ジャズスタンダードとは、簡単に言ってしまえば、何十年も前から現在に至るまで、多くのジャズミュージシャンが演奏している曲である。つまり、ジャズというのはアドリブ、即興演奏を聴く音楽であり、それを行うための曲があり、特にビバップというモダンジャズを演奏する様式において繰り返し演奏された曲たちのことである。

  50年代60年代のシャンソンやポップスなどの曲を媒体としそれでアドリブをとったジャズにおいて、枯葉やいつか王子様が、のような曲をいろいろなミュージシャンがそれぞれのアプローチで演奏し、またその違いをリスナーは聞き分けることをよしとしたという歴史があり、その中でジャズはスタンダードを聴くことだ、という認識を持った人々を多く生み出した。

 だが、それはあくまでもジャズの中のひとつの世界に過ぎず、ジャズにはもっと様々な音楽世界がある。自分たちで曲を書きあらたなジャズの地平を切り開こうとする人、スタンダードにはなっていないロックや民謡などでアドリブをとる人、またはコード進行もないフリージャズを行う人など。

 それまであったスタンダードを演奏するだけではなく、実はエバンスだってミンガスだって自分で曲を書いて演奏している。しかし、スタンダードだけがジャズだ、と思っている偏った考えの人はどうも、厳密な意味でのスタンダード、というより60年代ぐらいまでの、まあジャズが一番盛んだった時代までのミュージシャンが演奏している曲がスタンダードだ、みたいな認識らしい。

 というのも、エバンスぐらいしか当時弾いていない本人の曲を、今のプレーヤーが演奏することに関してはスタンダードを演奏している、という感じなのだ。だから、そのスタンダード以外はジャズではないと言う人たちのスタンダードとは僕がさらに解釈すると、要は60年代ぐらいに自分たちがよく聴いていたモダンジャズの曲、というのに過ぎないのだ。

 それでだ、結局、自分たちが知っている当時の曲を今演奏してくれると喜んで、現代の知らない曲だと「なんだよ、スタンダードじゃないのかちぇっ」と舌打ちしちまうというあくまでも個人の問題なんだよ。それを、まえの項でも書いた「スタンダードを演奏しないっていうのは、スタンダードをやると自分の技量がバレちゃうからね、だからオリジナルなんてやってるのさ」とくだらねえ理由つけて、ちっぽけな自我を守っているということなんだよ。

 挙げ句の果てに、若手のミュージシャンに手書きのスタンダードリストを渡して、これを勉強しなさい、とマジで講釈たれたバカオヤジとか本当にいるのだから始末に悪い。

 さらに、そのスタンダードの解釈でもバカオヤジどもは自分たちが聴いていたバップのスタイルなら納得するのだが、これが現代的な様々なスケールでアプローチした解釈だと、これはぜんぜんなっちゃないね、と馬鹿にしきった言い方を平気でしている。これも、つまりはそう言うジャズのアプローチを本人たちが知らない、楽しみ方が解らないという個人の問題を、ミュージシャン側がなっちゃいない、下手だと、悪口を言う、まあ責任転嫁なわけ。ジャズ聴かない人から見たら簡単に解る話だと思うけど、こんなバカバカしいことが普通にジャズの世界でははびこっているのよ、この現在も。

 というのも、ジャズなんて今や一部の人たちの小さなマーケットで、そんなバカオヤジがマーケットの中心を占めているというのが現状なんだな。そして、それをまた無批判に持ち上げ、やはりこれぞジャズだ、なんていうバカ評論家とともにスタンダード万歳ということになっているのだ。ああ、やだやだ。これだから、ジャズは死臭の漂う陰気臭い音楽だと思われるんだよ。

 もちろん、枯葉だって凄いアプローチで現代のジャズとして素晴らしい演奏を僕はいくつも知っている。だからスタンダードを媒体にすればアプローチしだいで今のジャズは成立する。それもあり、そして新しいまだ誰も聴いたことのないジャズを目指す、というのもまた一つのジャズのあり方であろう。だから、スタンダードか、どうか、ということではなく、要はそこに熱を、今を、新しい何かをどう聴き手に伝えるかということがジャズであり、歌舞伎のように伝統芸能継承者がジャズミュージシャンではない、と僕は思っている。

ジャズ50バカその8

8. オリジナルのジャズをやっている奴はスタンダードをやるとボロが出るからあんなことやってるんだと本気で言っているバカ

 

 日本のジャズ界を知らない人は、ほんとにこんなこと言っている人いるの?と思うかもしれないが、これが一人や二人じゃなくいるのよ、かなりの数のバカオヤジどもが。僕も実際にこういうこと言っているオヤジにあったことあるし、僕の店のお客様もあるライブハウスでとなりに座った60ぐらいのオヤジがしたり顔で「スタンダードまともに弾けないからオリジナルやってるんだ」と言われたらしい。

 そいつらは、枯葉とかいつか王子様が、とかやっていれば満足し、それどころか、普通じゃなかなか知らないバップ時代の曲をわざとリクエストして、さすがに普通のスタンダードじゃないから弾けないとミュージシャンが言うと、次回まで勉強してこい、みたいな上から目線で言ったりする。

 はあ、もうあまりにバカすぎてお話にならないのだが、ある世代のジャズファンってこの手合いがほんと多いのだ。

 じゃあ、言うけどさ、オリジナルをやっているミュージシャンがスタンダードやるとボロが出るって、どういう意味でいってるんだよ。つまりね、こいつらは4ビートのドスタンダードな弾き方でやりゃあ満足で、これはいいねえ、なんて言うのよ。現代的な、バップじゃないスタイルで演奏するとこういうのはダメだね、と馬鹿にする。

 頭が悪すぎるのだが、当然だがそんなミュージシャンたちがスタンードをやらないでオリジナルをやる理由はそんなことでは決してない。だいたい、テクニック的にみたって今のミュージシャンがスタンダードをやったところで本当にボロが出るわけないだろうが。むしろ、オリジナルで勝負している人たちは、新しいジャズを模索してそれこそがジャズやる姿勢だ、と思っているのであって、あえてスタンダードではない曲にチャレンジしてるのだ。それを、なんて失礼なこと言うのだろう。

 僕が今回、ジャズ50バカを書こうと思った理由はこういうことがあまりに多く、ふざけんな、という思いが積もりに積もったからだ。自分がある時代に熱心に聴いたある部分のジャズだけを認め、それ以外を認めるどころか、なにもわかっちゃあいないのに上から目線で馬鹿にする。まあ、実はそいつらは裸の王様で、客観的に見たら無様で無知でどうしようもない醜態なのだから、どうでもいいかもしれない。でもね、こいつらがジャズの未来をじつは閉ざし、首を締めていると僕は思っている。なぜなら、ジャズは常に今の今を表現する音楽だ、と思っているから。 

 当然のことだがスタンダードはそれは素晴らしい曲が多いのは僕もそう思っている。だが、いまから50年も前の曲をやるだけがジャズなのか。マイルスはずっとスタンダードだけをやり続けたのか。ハービーは、チックは、マイケルブレッカーは、メセニーは、メルドーは、言わずもがな、だ。それは彼らは生きた今のジャズをやっているから、スタンダードだけではないオリジナルをやるのだ。そして、僕もまだ聴いたことがない新しいジャズを常に聴きたいと思っている。

 このスタンダード偏重主義とも言える悪しき考えは、次回も別の事例で書く。そのぐらい頭にきているのだ、僕は。

 

ジャズ50バカその7

7. ポップス歌手や演歌歌手もしくは落ち目のアイドルが、マンネリ打破のためにジャズでも、と歌うバカ

 

 先に言っておくが、極まれに例外があってそこいらのジャズ歌手よりよっぽど上手いと思う人もいる。僕が思う一人を例としてあげれば、UAが菊地成孔と作ったアルバムは、はっきり言って普通のジャズ歌手では絶対に作れないオリジナリティと、斬新さのある素晴らしいものだ。

 ただ、これは例外中の例外。今まで、どれだけポップス歌手や演歌歌手、アイドルがジャズでございと、くだらないアルバムを作ったことか。というか、ジャズをといってアルバムを作ったあと、その後もジャズを歌い続けているのがいるのかね。だいたい、一枚出して終わりじゃないか。

 ジャズもなめられたものだ。そんな軽いノリでジャズっぽく歌ったから、ジャズアルバムですっていうのは普段ジャズを聴かない人に対してだって失礼極まりない。まあ、そのジャズっぽく、という形を作っているのは実はジャズ界側に問題もあるのだが。

 それは、ジャズボーカルってこんな感じで、というステレオタイプが実はあってね、それをまた超有名ジャズボーカル教室が金太郎飴のような歌い方を世間一般に流布してるのよ。だから、日本のジャズボーカルってどれもこれも判を押したようにみんなおんなじ(これも一部例外を除く)。この件は、再度また書こうかと思うのだが、だからこそジャズの外側からみると、あんな感じで歌えばいいのか、と思われているのだよ。

 つまりだ、ジャズボーカルってこんな感じ、というありきたりのスタイル、まあ雰囲気ね、それだけでジャズだ、ジャズだとアルバムを作るわけ。

 そんなもん、面白い訳ないだろうが。なのにね、それを持ち上げる輩がいてさ、そしてやはり買っちゃうバカオヤジがいるってことだね。結局、そのオヤジどもってそんな雰囲気だけでジャズボーカルを普段も聴いているってことなのよ。ちょっと、可愛い子がてきとうなムードつくって歌えばジャズです、ああ、そりゃよかったねえ。

 だから、未だに、演歌の大御所やアイドルがジャズやりました、とアルバムを作るのだよ。でも、何度も言うようにそのあとジャズを歌い続ける人っているの?そんな覚悟もないある意味いい加減なものをね、ジャズだとは僕は思えんね。

 そして、これも別の項でちゃんと書くけど、ジャズボーカルってステレオタイプのね、教科書どおりの歌なんて、なんの魅力も僕には感じない。ヘレン・メリルだってサラ・ヴォーンだって、ましてやカサンドラ・ウィルソンだって彼女じゃなければだせないオリジナリティで勝負しているじゃない。それを、こんな雰囲気でやればジャズボーカルっていうことが横行している日本のジャズ界だからこそ、こういうポップスや演歌歌手、アイドルたちのなめたジャズアルバムが作られる原因になっているのよ。

 まあ、その雰囲気だけのジャズをもてはやしているバカオヤジどもが一番の元凶なんだろうけどね。ジャズの側もさ、ここらでなめられないように、本来のジャズを歌うということはどういうことなのか、真剣に考える頃なんじゃないかね。

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