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なぜしがみつくのか

 正月明けから世間ではあの、兄妹と夫婦の二つの事件で大騒ぎでありますね。もちろんバラバラにしちゃったというのはショッキングなことでありますが、ただその部分を除くとある意味現在の家族が持っている割と一般的な問題から生じている、ように思えます。なんかね、兄妹にしても、夫婦にしてもなぜ一緒に同じ屋根の下に暮らしていたのか、ということね。

 これは現在だから問題になることなんだと思うのですが、一つ屋根のしたに暮らすということ、親子だったり、兄弟だったり、夫婦だったり、当たり前のことに思うでしょうがこれが昔のように幸せなことかどうか、という問題があると思います。もちろん、今だって家族が一緒に幸せに暮らすことも可能だしそれも良いのだけれど、自明であって説明の必要すらない数十年前とは現在の状況が変わっているというのを理解しないとこのバラバラ事件の本質はわからないと思います。

 家族であること、家族である必然性、これが今、きちんと自分で答えを見つけて家族一人一人が自覚的に意味を考えていないと「家族」に属することが逆に辛いという状況が実はあるのです。「え!なんで家族であることが辛いの?」と思う人がいるかもしれない。まあ、僕の世代前後まではそういうことを別になんとも思わないというか、みんないっしょなら幸せ、という幻想で生きてこれた時代ですからよく理解できないかもしれない。しかし、今の20代から下の世代では明らかに僕らとは違う、そういう幻想のない殺伐とした世界に生きているともいえます。そして、そこには「家族」を繋ぐものがとても打算的なものになっているのかもしれません。

 考えてみるとあの兄妹も夫婦も普通の人より金銭的物質的生活レベルは高いところにいたでしょ。物質的にはなんの不満もない場所で生きていたわけでね、そういうことに不満はなかったはず。というか、そこに問題があるのでして、その物質的に満たされそれが当たり前になっているというぬるま湯的状況からあの妹、もしくは兄、それとあの妻も抜けられなかった、脱出しようと気持ちすらなかったということなんですね。確かに妹は家を出たいと思っていたらしいですが、やはりあの恵まれた家に繋がれているから受けれる恩恵もよくわかっていたはず。兄はそれにしがみつくしかできない人間になっていたと思うし、両親もそれが幸せなんだと信じていたでしょう。また、もう一つの事件の妻も旦那が稼いでくる金とそれのために実現しているああいう生活というのを絶対に手放したくなかった、だから離婚もしてこなかったのです。そして、二つの事件ともその手放したくないものと引き換えに精神を病んでいった、これは決して特異な症例じゃないと思いますね、この現代の状況では。

 貧乏な状況はまたそれゆえの悲劇というのも生むのではありますが、こういうことはないようにおもいますね。だって、そうだったら妹はさっさと家出するだろうし、兄はとっくに働きに出されているだろうし、妻は当然離婚しているでしょう。これは金を持ったからいけないということではないのでしてね、兄と妹だったり親と子だったり、また夫と妻はなぜいっしょにいるのか、一つ屋根に暮らしているのか、こういうことの本質をちゃんと理解しているのか、ここにつきるのです。わかった顔してね、それが実はある代償でしかない、ということがいろいろ現在の生活には潜んでおりましてそれを意識的に検証しないと家族としての意味なんてなんにもない、そんな裏を返せば殺伐とした状況なんだと思います。まあ、みんなそれをうすうす解かっていながら見ないように見ないようにして、毎日をうっちゃっていたりするのだけれども、もう家族であるから幸せ、なんてことは自明にならないのであります。両親がいるから悲劇ということだってある、また子供に殺される親のなんて多いことか。夫が妻を妻が夫を殺すなんてもはや日常茶飯事でしょ。それでも「うちは大丈夫」なんて言ってられないはず。一つ屋根の下に暮らすこと、それはけっこうキツイことが当たり前なんでしょう。

 もちろん、それをキツイ状況から一緒にいる意味を見つけほっとできる場所に、というのはできることなんですがそれは昔のようにただ漫然と暮らしていてもだめな時代なんだと思います。いろいろな代償というものを理解しつつ、本質を常に考え、もちろん愛情とはなにかとかね、根本的なことも踏まえつつ、しかもあるときは家族としての演技も必要となる。すべてを正直にさらけだせばいいというほど単純でもない、演技をしなきゃいけないのだけれど、演技をしているんだという自覚を持ちつつその状況を保たなければいけないこともある。「そんな難しく考えなくてもいいじゃん」と言われるかもしれませんが、いい親を演じたり、聞き分けのいい息子や娘を演じたりしたことは誰でもあるはずなのでね、それをある本質を壊さないためにしているんだ、という自覚を持てるかということ、こういうことも(もちろんこれがすべてじゃないが)必要だったりするのです。

 つまり、これは家族であり個であるということの自覚、と言えまして子供もなるべく早く個としての自覚をもったほうが現代においてはいい、と僕は思うのです。この個の問題は実は大人でももてない人もいるのでなかなかやっかいな問題ではありますが、家族であることと同等に個であることを尊重しないといけない。そして家族であることが個であることの存在を脅かすようであれば、すみやかに家族から切り離せるような流動性、これがとても大切に思うのです。この流動性、がないとほんとうにキツイ。あの兄にしても、妻にしても、まったくそういうものは持ってなかったのでね、動けないところでぐちゃぐちゃになっていたのでしょう(個というものがどこまで完成していたかがそもそも疑問だけれどもね)。これは弁護しているわけではないのであしからず。

 死ぬか、生きるか、選択ができるというのは幸せでありましょう。でも、生きるしかない、というまったく選択がなかったとしたらそれは実はキツイのよ。もちろん死んじゃだめなんだけど、でもねそういう選択の余地があるから生きていけるともいえる。だから、家族を抜けたかったらそれもありという選択の余地もこれからは必要だと思うのです。戻りたかったらまた戻れると言う選択の余地も離脱後あるようにね。そして本質以外にびっしりこびりついた代償というものを一つ一つ引っぺがしてね己の心を知る、これがないと家族も夫婦も現在に存在する意味を見つけることはできないのでしょう。それはただ相当に難しいこと。みんなが同じ方向を向いている時代ではなくなっている昨今、親であること、子であること、夫であること、妻であること、そして家族とは夫婦とは、意味すら曖昧なのが21世紀なのであります。

 

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コメント

ご無沙汰しております。本年もよろしくお願いいたします。

先日、阿佐ヶ谷の複数回競馬王と、西荻ジョカサーの夜の部へ行ってまいりまして、3000円コースを堪能して来ました。ものすごい量でビックリ。ランチとは違った発見があって感動いたしました。

さて、本日の投稿についてちょっと感じたことを。
たしかにここのところ猟奇的といえる事件の報道が相次いでいましてワイドショーなんか見る気も起きないほど辟易ですが、これって本当に現代という時代が産んだ事件なんでしょうか?
実は、猟奇的な事件や青少年による犯罪自体が増えているのではなく、そういう事件の「報道」が増えているだけではないの?と思うのです。(この国のマスメディアのダメっぷりは、すでにお嘆きの通りご存知でしょう)

以下のサイトなどでは、私の言いたいことを代弁してくれております。(これらサイトが完全に正しいことを言っているかどうかについては保証できませんけれど)

http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/news/toukou6.18.html

http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson2.html

http://kogoroy.tripod.com/hanzai.html

舌足らずでした。
だからと言って今猟奇的な事件が起きている事を是としているわけではありません。
ちょっと補足いたします。

そうですね。僕もこの二つの事件が猟奇的なことだった、ということについてはまあそうだったのかな、ぐらいなんです。むしろ、その猟奇的なこと以外の類似性というのかな、現代に起こるべくして起こりうる殺人事件だったということと、やはり形骸化してしまい「家族」「夫婦」を取り巻く状況と言うのは明らかに昔とは違ってしまっている、そのために歪みが生じているのは今ならではなのだろう、と思ったのです。それと少年犯罪が現代だから凶悪化して増えているということではない、ということもそうかもしれません。僕が言いたかったのはその量とか凶悪性というよりその起きた状況、原因は昔とはまったく違うということでして、なにが引き金になってそういう事態を引き起こすのか、それがやはり現代ゆえの理由というものを感じずにはいられません。例えば少年犯罪ではなくてもここ最近とりあげられる「熟年離婚」にみる「家族」や「夫婦」のあり方というものは昔ではとうてい理解できないものでありましょう。そういう意味で、今回の事件にはやはりマスメディアが馬鹿騒ぎするのは別として(猟奇的であるという点も置いておいて)現代の「家族」や「夫婦」がかかえる問題を象徴した出来事だと想いこういう文章を書いたのであります。

そうそう、補足いたしますとなぜ現代的犯罪なのか、というとどちらもごく普通の「家族」であり「夫婦」であり(しかも一般的には人が羨むような)、そこで凶悪な犯罪が起きたということが現代的といえましょう。これはあきらかに過去にはなかったことで、ここ最近は多く見られることだと思います。それは初年犯罪でも不良少年と言われる子供たちが起こした犯罪とは質が違うと思いますし、理由も昔のようにそう簡単に理解できないからワイドショーの格好のネタにもなっているのでありましょう。とにかく子供たちの心に起きている問題はまったく過去のものとは違っているのであって、それを犯罪の量は増加していない、とか凶悪犯罪は今になってはじまったことではない、ということですむ問題では僕はないと思っています。

おはようございます。
そうですか。。。
「子供たちの心に起きている問題が過去と異なっている」という部分が、私には感じられないので意見が食い違ってくるのかも知れませんね。
少なくとも私の周りの少年たち(甥っ子たち、友人の子供たち、飲み屋で接する若者たち)は、ファッションや音楽の好みなどの時代に応じて当然変化する部分はさておき、ものの考え方や感じ方、悩み方などで私の頃とそんなに違うとは感じられないのです。
私が少年の頃も、「最近の子供たちは何を考えているのかわからなくて怖い」「核家族化の弊害だ」「インベーダーゲームなどのせいで遊び方を知らない」などと言われていたような気がします。当時も、隣のピアノの音がうるさいから子供を殺したなんて事件もあって、あれも「普通の」家庭の事件だったと思います。
うーん、うまく言えませんね(^^)。
ただ、マスメディアが書き立てているような「現代人の心の闇」みたいなものは、私の周りを見る限り、やはりメディアが煽っている部分が大のような気がしています。(景気の問題やら老後の心配やらで現代人にストレスが溜まっていることは確かなのでしょうが、いつの時代にも何らかのストレスはあるはずです。バブルの時だけ無かったのかも知れません)

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