« 真央ちゃんとチャールズミンガス!? | トップページ | ワンコインで最高級の満足を手に出来る方法 »

僕が今、クラシックを求めている理由

 なぜ、クラシック音楽に今、自分は回帰しているのか。ただ漠然と、年をある程度とったから、またクラシックを聴ける余裕ができたとか、さんざんはまっていたジャズに少し飽きてきたからかとか、そんなとこではないだろうかと思っていました。もちろん、ここで数回書いたように、クラシックを聴くための方法論というものも、若い頃と変わったというのもあります。でも、実はそれは外的な理由でしかありませんでした。もっと、内側ではやはりクラシックを希求していた衝動があったようです。

 これは、僕がクラシックに最初にはまった中学、高校時代に遡ってみてはっきりしたのですが、僕が当時も今もクラシックを求める理由、それは西洋文化における個人としての在り方に対する憧れと、集団や組織にアイデンティティを求める日本人的在り方からの脱却(いや、願望であって当然完全には脱却できないのですが)、そして自己アイデンティティの再確認なんだ、ということです。

 たまたま、最近読んでいるクラシック関係の本の作者、鈴木淳史氏(そうとうひねた評論で、しかも反権威主義者的あまのじゃくな文章を書く人で、自分と同じ匂いを感じます)もクラシックを求める理由に、自分の文化にない異文化としてのクラシックを聴くことで、日本のムラ社会的窮屈さから開放されて、自己を取り戻すことができる、というようなことを言っていて、ああ同じように感じている人なんだと思いました。 

 僕自身、自分の音楽遍歴は僕の精神遍歴とぴったりとリンクしている、ということが今だからよく解ります。やはり、その時、その時、何の気なしにその音楽に夢中になっていたのではないのです。

 つまり、クラシックにはまっていた中学、高校時代はまさにヨーロッパ的な個人主義的生き方に憧れていた頃です。僕は、当時、自分はまわりの同級生とは違う、考え方も感じ方もいっしょではない、ということばかりが頭を支配してました。そして、人と違うということが自分の支えでもあり元来のアマノジャクな性格もあって、集団的な中に自分を置いておくことの窮屈さや、孤独ばかり考えていたと思います。もちろん、表面上は友達とも上手くやれる処世術も身につけていったのですが、やはり、家に帰るとクラシックのレコード、特にマーラーを聴いて「生も暗く死も暗い」という大地の歌を解ったような顔をして一人ごち、ショパンを聴きながら自分で自分に涙し、センチメンタルな世界に一人でどっぷりつかっておりました。まあ、肥大化した自我であっぷあっぷだったのでしょうが、それでも、個人でありたい、集団に埋没したくない、という強い思いがクラシックに自分が向かった一つの理由であったのか、と今はよく解ります。

 その後、高校、大学へと進むに連れて、そんなことだけにこだわっていては友達もできないし、まわりはバブルへ向けてお祭り騒ぎの前夜祭的世の中。個人にもこだわりつつ、皆といっしょに楽しくもやらないとと思い、フュージョンや流行のポップスを聴き、同化することもがんばってみるわけです。ですが、やはりアマノジャクな僕は、完全に同化することができない。それで、ジャズというか、フュージョンのようなところへ落ち着いていくのです。フュージョンなら、適度に一般から距離があり、適度に大衆的なのであり、つまりは個人主義的生き方も捨てられないけど、みんなとも遊ぶからねーという中途半端な自己の表れでもあったようです。

 そして日本でサラリーマンをやりながら個人の自分と集団の中での自分にもがき苦しみ、その頃、ジャズへ傾倒していきまして、現実で実現できない個を、新宿ゴールデン街でかろうじて再確認するという毎日。集団の中で戦う個というイメージでありまして、ジャズがその時の精神状況にぴったりきたのでしょう。そして完全に閉塞した組織の中での自分に我慢ができなくなる寸前、神の救いか香港駐在となり、日本を脱出。

 香港では、まさに一度失いかけた自己を取り戻して、再び生き返ったような感じすらいたしました。そのころはジャズも聴きましたが、ボサノバにはまったのがまさにこの頃。そのほかの音楽も、今日が楽しくなる音楽ならなんでも聴くぜ、とオールマイティになっておりました。つまり、個人を意識しなくても個人でいられる世界、異文化の中での自分がとても居心地がよく、そういう状況ではなにかに執着しようという気がなかったようです。だから、耳障りがいい音楽というか、今思えばBGM的な音楽をたくさん聴いていたのかも。当時はクラシックもそういう聴きかたをしていたように思います。

 そして7年ぶりに日本に帰ってくると、やはり骨の髄まで日本人だったのを痛感。離れてみるとよくわかる、日本のゆるいまったりした社会の居心地の良さ。でも、やはりその中でも個人で生きていくのを選択した僕は、自分で店をやることになり、そこではジャズがまた自分の気持ちにぴったりきたのです。ジャズというのは、僕の中では己を再確認する道具というより、むしろ自己をどう表現しアピールするのか、というための音楽に思います。自分というのがちゃんとあるのは前提で、ただそれが世の中に受け入れられずもがき苦しみ、それでも俺はここにいるんだと主張する音楽。僕にとって、そういう音楽なんですね。

 ですので、また居心地はいいのだけれど、この日本で一人の個として生きていくためには、自己を保ちつつ、またその日本的な状況も受け入れつつ、でも集団から切り離された、店という自分の世界を保ち続けていかなければならない、僕にとってはまさにジャズが必要だったのだろうと思うのです。

 ところが、最近になって自己について、どうもぬるま湯にすっかりつかってしまい、これでいいのかという思いが強くなってきたようなのです。この10年、ジャズとともに店を維持し、そして結婚、子供も生まれ、人並みの生活を送るようになってきたのですが、だんだんと弛緩している精神に我慢がならなくなってきたというか、いや、ここらで、もう一度、自分について再確認しておいた方がいいのではないか、という欲求がつよくなってきたようです。

 そういうときに、無意識にクラシックを聴きだしていたのでありまして、なるほど、意識せずともそういうことをするのか、僕は。もともと、まったく知らない世界や異文化にいきなり自分を投げ込む、ということが僕は好きなのですが(ですので、海外や地方で一人で生活するのはまったく苦ではないのです)、なにか、迷ったり、吹っ切る時はこういう方法が僕には有効なんです。

 今、マーラーなどをあらためて聴きだしてますが、その個人主義が徹底された上での観念的世界が生む芸術は、日本的な優しさや暖かさとはまったく異質なものだということがよく解ります。個と個が完全に切り離されているからこそ、なんとか繋がろうという強い意志、そして主張。だからそこに強大な理想があり、誇大妄想のような夢の世界がある。それを観念で作り上げなければ生きていけなかったのだろう、という現実があるにせよ。もちろん、こういうヨーロッパの世の中や社会がいい、といっているのではありません。日本のほうが平和でいいなあ、と思う部分もたくさんある、でも、日本がかけている部分をマーラーのシンフォニーからたくさん読み取ることもできる。僕はまた、そういう厳しさや合理性みたいなもの、そしてその上に成り立つ個というものを、もう一度考えてみよう、と思っている、だからクラシックを聴きだしているようです。

« 真央ちゃんとチャールズミンガス!? | トップページ | ワンコインで最高級の満足を手に出来る方法 »

ジャズその他音楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 真央ちゃんとチャールズミンガス!? | トップページ | ワンコインで最高級の満足を手に出来る方法 »

twitter

  • twitter

最近のトラックバック

2015年4月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ