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とにかく聴く

Muti  夜はジャズ(まあ仕事ですし)、昼はクラシックという日々であります。

 ここのところ、よく聴いているのはブルックナーとショスタコーヴィチ。なんの関連もありませんが、ただ交互に聴きたくなっているというだけ。ブルックナーはとにかく長い、70分以上もあるので、ひたすら曲がわかるまで聴くのであります。今は交響曲第5番を指揮者の違うのをとっかえひっかえ聴いているわけです。しつこく、何度も聴いていると長大な曲もなんとか把握できてくるもの。そうなると、やっとその曲の面白さが解ってくるわけで、ブルックナーはなかなか大変な作曲家だと思うのであります。

 ブルックナーについてはまた後日書くとして、本日はショスタコーヴィチの5番について。以前、小澤、サイトウキネンの5番や、父親の思い出のロジンスキー、クリーブランドのことを書きましたが、ここ最近、ちょっと驚いたのがリッカルドムーティとフィラデルフィア管弦楽団の5番。

 90年代の録音でして、またまた近くの中古屋で激安でころがっていたのを買ってみたのですが、これがかなりのひろいもの(と言ったら失礼ですな)。ムーティという指揮者は僕の高校時代(30年前)に持った印象はイタリアのハンサムで色男だけど、軽いうすっぺらな指揮者というあまりいいものではありませんでした。当時だったら、同年代のアバドのほうがはるかに優れていると思っていましたし。

 そんなムーティ、ぜんぜん期待しないで聴いたのですが、このショスタコ5番、僕の好みとしては小澤よりもはるかに良かったし、面白かったのです。なにしろ、ショスタコといえば、体制にたいするアイロニーとか、政治的な匂いとか、厳しい精神性とか、そういうものが詰め込まれた音楽でありますが、ムーティも小澤同様、そういうものは皆無といっていいぐらいの演奏です。しかし、小澤と決定的に違うと思ったのは、彼のとる曲へのアプローチは純粋に音楽としてどう響かせ、美しいところはいかに美しく表現するか、全体の流れを中断することなく、ショスタコーヴィチという作曲家の現代的でありながら古典的な作曲技法という側面を存分に光をあて、まるで19世紀の交響曲のように仕上げているのです。これは、純粋に音楽として捉えているという点では一緒の小澤が、まるで教科書のようにここはこういう仕組みになっていますというような、現代音楽的アプローチとは正反対の演奏とも言えると思います。

 とにかく、こんなに流れるように美しいショスタコーヴィチの5番がかつてあっただろうか、と僕は思います。フィラデルフィアサウンドがまた、その解釈にはまっていてうっとりするぐらいの弦の響に、ゴージャスなブラスサウンド。しかも、この曲は熱くなりがちな演奏が多いのですが、実に品がよく格調たかいたたずまいすら見せるのです。しかし、ただ羽毛で撫でるだけの音楽というのではなく、第三楽章のラルゴでは、そのアプローチだからこそ醸し出すことのできたしとっりとした寂しさも。もはや、ここでは体制のなかでもがくショスタコーヴィチはおらず、むしろモーツァルト、ベートーヴェン、マーラーと続く、クラシックの交響曲作家としてのショスタコーヴィチの姿が明確になっている、そして、ソ連のお抱え作曲家というレッテルを完全に払拭した演奏でもある、とこのムーティ、フィラデルフィアには思ったのです。

 つまり、ロジンスキーやムラヴィンスキー、バーンスタインなどの今まで絶賛されてきたアプローチとはまるで違うので、これは受け入れられない人も多いかも。でも、クラシックを聴く楽しみには、今まで聴いたことの無い世界を聴かせてくれる、新たな発見をさせてくれる演奏に出会うという一面もあります。ムーティのショスタコは思いがけず、そういう体験をさせてくれたのであります。

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