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音の積読状態

 本が好きな人がよく買うだけ買って満足し、それをまったく読まないで同じことを繰り返しながら積んでいき、読まないで埋もれていく本がいっぱいできてしまう、という話は、以前からよく聞く話であります。音楽でも、そういうことはあるでしょうが、僕の場合、CDで買ってくるものでは今までそういうためしはあったことがありません。やはり、とりあえず一度は聴いてみる、そして何ども聴くものもあれば、また思い出したように数年後に聴くものもある。自慢じゃないですが所有のCDはもう軽く1千500枚は超えており、持っているものはちゃんと記憶しているので、これ持っていたかどうか自信がなくまた同じものを買う、ということは僕にとってはほとんどない、と断言できます。 

 ところがここ数年、人から貸してもらったCDをPCに落としi-tuneに入れるようになり、CD以外に音源がたくさんたまってきているのですが、こちらは何を入れてあるのかが、ほんとよく解っておりません。この間も、お客様が持ってきたCDを店でかけて「へえ、これいいねえ」なんて言っていたら、なんと自分のPCにはちゃんとはいっていたという有様。

 これを、CDに焼いて店に持っていっていれば忘れることもないのですが、どうもi-tune管理だと、利便性の高さ故かPCに入れただけで満足して、そのまま忘却のかなたへ、ということになるらしいです。これは明らかに音楽の積読状態であります。 それなのに、中古CD屋へちょくちょく顔出しては物色しているわけで、これは自分のi-tuneの中を精査したほうがかなりのお宝が眠っているだろう、ということをようやく理解したしだい。

 だから、若い人たちが家にCDを持たずにすべてi-tuneに落としている、という話なんですが、みんな自分の所有の音源を憶えているのだろうか、と僕は思うのです。まあ、僕のようにむちゃくちゃな数を持っている人は少ないでしょうから、そんな心配は必要ないのでしょうが、やはり形になっているものと、そうではないものでは、記憶に残り方が違うようですね。

 形、それは音楽としては、ケースやCDの円盤の丸い形もそうですが、やはりCDジャケットというものも僕の記憶には音といっしょに残っている。そういえば、やはり人からCDを焼いてもらったもので、ジャケなしの裸のものは確かに記憶があやふやなものが多かったりもするのですね。それは別に印象的なジャケじゃなくても、一つの形として認識されるシンボルになる、ということなんであります。

 シンボル、これがまったく見つからない世界、それが僕にはi-tune上の音源なんだ、と思うわけで、記憶するには確かに難しい世界なのかもしれません。もちろん題名というのもシンボリックなものなんですが、やはり視覚的要素プラス実在するモノ、という強さには、かなうわけがないのです。その認識される強さがないと、本来、その音、音楽が持っている魅力、価値が薄まって捉えられてしまうのでは、という恐れを考えてしまうのは、もう古い世代だからなのでしょうか。

 当然、音楽というのは、ビジュアル的な側面抜きで十分に存在しているものですし、楽譜すらない時代は裸同然の状態で、形としての認識なんて皆無であります。その本質は解るのですが、現代の情報としてやりとりされる音楽、という状況下ではもはや、よほど注意深く音源を聴いて、それを自分なりの管理の仕方で記憶に留める方法を作っていかないと、ほんとあっという間に忘却のかなたへ行ってしまう、と恐れを抱きつつ、これからの音楽のあり方を考えてしまうのです。別に留めなくても、今いいと思うものを聴けばいい、という人が大半でしょうし、僕のように偏執狂的な人じゃなければ、どうでもいいことかもしれません。ただ、僕にはその時、その時だけで流れていってしまうものだけ追いかけている、というのはちょっと空しい、寂しいわけで、たしかに人間は忘れていく生き物故に、それをなんとかして自分の中に記憶していきたいと願う気持ちがあるわけです。

 とりあえず、一度i-tuneの棚卸といいますか、整理をし掘り起こしてCDに再度焼いていこうか、と思っております。そうそう、中古あさりしてる場合じゃなかったと反省、している今日この頃であります。

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ジャズその他音楽」カテゴリの記事

コメント

僕チンなんて2千枚オーバーだも〜ん…なんて(笑

いちいち考えるより…ウェブでお手軽即効、なんでもかんでも、終いにゃ人間の体験すら一発検索で共有されてしまう時代。何かを深く味わったり考えたりした体験を純正メモリー(自分の脳みそ)に蓄積する事に価値がなくなっているような気がしますね。

記憶の外部化、共有化が現実になっている。本当に今持っているもの、実際に存在すると思われるものと仮想の存在の区別がつかなくなっている。本当に自分のものなんて思い込みなだけで実際はないのかもしれないですね。

最近はなんだか一昔前のSFの世界を現実の世界が超えてしまっているような気がしませんか?

まさに、SFだったものが現実になってるね。手触りのごつごつしたところがなくなって、つるつるしていて、無味無臭、プラスティックな日常といった感じ。どうも、古い人間なんでそれだと空しいのよ。

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