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音楽を聴く、ということ

Leonard  音楽評論を時々見ていると、音楽を聴いて魂を揺さぶられた、とか感動で打ちひしがれた、とか大げさな表現を見ることがあるが、正直、ずいぶん大仰な書き方をして、と常々思っていた。もちろん、自分も音楽を聴いて感動した、といえるような状況は何度も経験しているし、心に染み渡るような思いをしたことも幾度となくある。

 しかし、本当のところ、その感動とは自分のその時の精神状況や、おかれている環境、疲労度など、その音楽以外の自分自身が多少なりとも影響しているのではないか、と懐疑的になることもある。つまり、音楽を聴いて泣く、なんて自分の感傷性とシンクロしたからなんじゃないか、と思っていたのだ。(もちろん感傷性にシンクロさせる音楽の力、というのの凄さも解っているが)

 思えば、僕がクラシックを聴き始めた中学、高校時代は曲を聴きながら涙する、ということがちょくちょくあった。思春期で多感な頃の自分は、どうしようもない不安や、届かぬ思い、漠然とした未来への恐れ、などぐちゃぐちゃな思春期特有の自我を聴く曲、聴く曲にあてはめ、そのずぶずぶのセンチメンタルな気持ちにぴったりのものを探して泣いていたように思う。

 言ってみれば、その演奏が良かろうが悪かろうがどうでもいいわけで、ショパンの感傷性に泣き、ドヴュッシーのクリスタルな響に泣き、マーラーの深刻でドラマティックな展開に泣いた。

 そう、あの当時、演奏の良し悪しなんてほんとうはなにも解っていなかった。解っていると思い込んでいただけで、評論で気に入ったものをさも自分の評のようにえらそうな口をたたいていただけだった。だから、バーンスタインのマーラーがどれほど凄かったのか、中学時代に親にせがんで連れて行ってもらったニューヨークフィルとの演奏会も、もの凄く感動したのは事実だが、どれだけのことを理解していたのかは、今となっては怪しいものだ。

 前置きが長くなったが、今朝、僕はそんな感傷性や、昔のノスタルジックな思い出とは無縁のもの凄い体験をした。これが芸術の力なのか、というような。

 大仰に書いてもいい、そう言いきれるちょっと稀有な体験である。それは、バーンスタインがイスラエルフィルと1985年に演奏したマーラーの9番を聴いていてのこと、だ。

 マーラーの9番はここ2年ぐらい集中的に聴いてきた曲だ。CDでかなりいろいろな演奏を聴いてきた。人からも借りて様々な指揮者、楽団の演奏を吟味してきた。ラトル、カラヤン、クーベリック、ジュリーニ、アバド、ベルティーニ、テンシュテット、それにバーンスタインETC。バーンスタインはスタジオ録音のコンセルトヘボウとのと、ベルインフィルとのライブも両方聴いた。そして、この曲はある程度自分が納得できるぐらいに理解したつもりだった。

 もちろん、好きな演奏あれば、嫌いな演奏もあるし、素晴らしいと思えるものもあれば、アホかといってしまうほどくだらないと思った演奏もある。しかし、そこには昔の僕が聴いていたような自分の感傷性に照らし合わせて聴く、というような行為や、ノスタルジーで聴くというようなことは徹底的に排除してきたつもりだ。あくまでも、曲を冷静に聴き、そこから曲本来の、いや指揮者とオーケストラがマーラーをどう引きだすのか、という点を集中して聴いてきた。

 だから、泣く、なんてもうありえないのか、ぐらいに思っていた。いや、じわっと「あっ、いいなあ」と思いちょっと涙腺が緩んだ演奏は確かにあった。あまりの優美で美しさにうっとりとして涙が少しだけでた、ということもここ最近あったのは事実だ。

 でも、今朝は違っていたのだ。このバーンスタイン、イスラエルフィルの演奏は一楽章からもの凄い気迫と緊張感が伝わってきた。これは確かに凄い、最初は細部細部の表現の濃さに圧倒されて、こんな演奏が過去にあったのかと思いながら、深く深く曲に入り込んでいった。バーンスタインの解釈に全身全霊で演奏するオーケストラ。まるで生き物のようにうねり、身もだえ、咆哮する様はこれが本当に指揮者とオーケストラのだす音なのか、とただただ圧倒されていく。

 この時点で、この演奏はただものじゃない、ということが解る。第二楽章、第三楽章とその思いはさらに強くなり、これはとんでもない記録なんだ、それを僕は今聴いているのかと。マーラーの9番はこんなに優美で、グロテスクで、コケティッシュで、野蛮で、軽やかで、深遠で、ありとあらゆる混沌とした世界観がつめこまれ、それをバーンスタインは凄まじい情報量の多さでイスラエルフィルを使って語りかけてくる。こんなことができるのか、そんなことを感じて聴いていた。第三楽章までは。

 それは突如きた。第四楽章のアダージョは、ストリングスからはじまるゆったりと流れる楽章であるが、最初はああ、なんて厚くて暖かい音で包み込むような弦なんだろう、と思いながら聴いていた。そしてその弦が上昇していく流れに身をふっとまかせた瞬間、なんということが僕はあっという間に号泣していたのだ。自分で、一瞬なにがおこったのかわからないぐらい泣いた。それは悲しいとか、嬉しいとか、そんな単純な感情じゃなかった。もう、ただただ涙が当方もなく流れ出た。

 ああ、これなのか、芸術の持つとてつもない力とは、それに自分は今ふれてしまったのだ、とはっきり思った。なにか、自分が生きているという実存がその音楽によって許してもらったといったらいいのか、なにか宗教がかっているようだが、ほんとうに自分の根源的な部分にダイレクトに刺さったというか、ちょっと言葉では説明できない異様な体験をしたのだ。

 マーラーの9番は長い曲で、このバーンスタインの演奏は1時間半ちかくあり、第四楽章は30分もある。でも、第四楽章は特に、僕はまるで金縛りにあったかのように身動きひとつできなくなってしまった。途中何度も、涙が流れた。なんで、47歳にもなった自分がこんなに泣いているのかがまったく理解できなかった。でも、一つ解ったことがある、これが魂を揺さぶられ、感動にうちひしがれた、ということなんだと。最後に、バイオリンが消えるように終わるエンディングのあとも椅子をたつことができなかった。ああ、この瞬間のために僕は、クラシックを聴いてきたのか、と心からそう思った。

 それは、紛れもない事実で、真の音楽、芸術の力、それはめったに出会うことはないが、やはりあるのだ、と。生きている意味、実存、そして芸術とはなぜあるのか、ようやく少し僕は理解した、ようである。

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コメント

え、この組み合わせCD化されたの?即買いですな。ところで野呂一生の生ギターデュオでなかなかのCDを発見。次回お邪魔する際にお聞かせしましょう。

これはマジに凄い演奏です。伝説の日本公演直前のライブでして、完全にやられました。

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