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やりすぎてしまうということ

Gyo_2 一生懸命やってるな、がんばってるな、という意気込みは伝わる。だからこそ、それで満足したいのだがなぜか、うーん、これはちょっと、と思うことがしばしばある。

 例えば、クラシックのオーケストラの指揮でも、その指揮者の情熱や思いは痛いほど伝わるのだが、それがその曲とのバランスを超えてメロメロになっていて聴いていて辛くなることがある。つまり、その曲本来の姿を表現の過剰さが凌駕してしまい、それに聴く側がについていけなくなるのだ。

 また、最近の焼酎のラベルであるが、カッコよくスタイリッシュにしようと考えるあまり、逆においおいこれやりすぎだよ、という妙なラベルをよく見かける。作った本人たちは満足なのであろうが、こちらとしてはお笑いとして受け止めていいのか、マジで受け止めていいのか困ってしまう。確かに、ミスマッチの面白さもあることにはあるが、それはかなりぎりぎりの線のセンスなので、そんな秀逸なミスマッチにはめったにお目にかからない。ここでもその本質と表現のあいだのバランスが重要なのだ。

 あと、ツィッターのフォローが何千人とか、フェイスブックの友達が何百人とか、これって本来のソーシャルネットワークの姿なのか。だって、何千とかの情報ってどうやって自分の中で消化するのだろう。それに友達ってそんなにいるものなのか。子どもだって友達百人できるかな、って疑問に思ってるぐらいだし。もうこうなると、本来の趣旨を逸脱してしまい別の姿になっているとしか思えない。

 さて、やりすぎているなー、と思ったのは他にもある。最近、何店かの店で餃子を食べていて思ったのだが、皮も自分で作っているし、タレも何種も用意しているし、焼き方も完璧、なのになんかなあ、と思ってしまった。それは、つまり餃子自体に味があり過ぎてくどいのだ。

 まあ、好みの問題かもしれないが、僕は餃子自体は薄味でそれが酢醤油といっしょになって美味いのが餃子だと思っている。だから、餃子はいくつも数が食べれるし、ご飯にも合う。それが、餃子そのまま食べて味が濃いとなると、それはもはや餃子じゃなくなってしまっていないか。いろいろがんばっているから、つい餃子自体にも味を入れたくなるのだろうが、それでは皮、具材、焼き方、そして酢醤油というバランスが壊れてしまうはずだ。しかも、餃子自体に味が濃いのに、特製の別だれがってそんなにくどい味にして食べて美味いのか。僕には美味いとは思えなかった。

 つまり、物事にはバランスがあるということ、だ。本質と表現の間には、やり方は一つではないだろう。ただし、ここからここまでの間で、というバランスの領域が必ずある。それを逸脱すれば本質は見えなくなる。クラシックでも酒のラベルでも、ソーシャルネットワークでも餃子でも、だ。大切なのは、ものの本質とはなにか、それに尽きる。もちろん、その本質を見つけるのが難しいのだけれども。でも、一ついえるのはそこに意識が払われないで、一生懸命やってます、がんばっています、というのは滑稽で見苦しい。なんでも、がむしゃらなら許される、というのはお門違いなのである。

 僕が危惧するのは、これらひとつひとつの事象のことではない。がむしゃらで見えなくなってしまい本質がないがしろにされること、そこがいいじゃないか、いいじゃないか、という風潮で軽視されていることが多いということだ。まあ、餃子なんかは、本質逸脱したって美味ければ別のものとして認知されて評判になるかもしれない。だから、何度もいうが個々の事象がどう、ということではない。本質とはなにか、ということがまったくなしに物事が進むことがやばいのだ。

 今日も震災の瓦礫搬入を受け入れないというニュースをやっていたが、反対している人は一生懸命なのだろう。だけれども、その本質はなんなのだろうか。それを、ちゃんと見据えて反対しているのだろうか。やりすぎてしまってはいないのだろうか。  

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