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2012年7月

本日は前半投げ銭ジャズライブ、後半はオリンピック放映!

Hayakawa  本日は、毎月恒例となっております彗莉(えり)ボーカル、早川由紀子ピアノ、ジャズライブをおこないます。もちろん、通常のドリンクチャージのみ、ミュージックチャージなしのライブですので、お気軽にいらしてくださいませ。お待ちしております。

 8時半から2セットです。(よろしければ、演奏者たちにチップお願いします)

 そして、ライブ終了後は、なでしこの女子サッカー予選第三戦、日本対南アフリカをテレビ放映します。ジャズライブからオリンピックへと、楽しみ二倍で本日のザジ、お送りいたしますので、皆様ぜひいらしてくださいませ。

 また、次の日曜日、8月5日は早川由紀子トリオwith 彗莉 のライブもあります。西川てるまさ(b)野呂尚史(ds)を加え、迫力のある演奏をお楽しみください。

チャージは2800円(ドリンク別)となっております。

7時半から8時ごろオープン8時半から2セットです。

(この日は食べ物のオーダーは受けませんのでお食事はすましてきてくださいませ)

 真夏の夜にクールでホットなジャズをぜひ!

お待ちしております。

電話予約は03-3389-4522 伊藤まで

本日はガージェリーの日&男子サッカー!

Estella  本日は毎月恒例のガージェリーの日、エステラが入荷します。そして、オリンピックのサッカー男子予選、日本対スペインを午後10時よりザジでは、テレビ放映いたします。みんなでガージェリーエステラを飲みながらサッカー観戦いたしましょう。

お待ちしております。

震災後も日本は変わりはしないのか(6) 完

 確かに今の日本で、未だにはびこっているムラ社会的システムの組織で、そこから抜け出す、ということは大変な勇気がいるとは思う。なぜなら、ムラ社会的な共同体を支えてきたシステムの根幹、それは相互監視ということだからだ。

 この相互監視というのは小さいムラ社会だから有効なシステムで、だからこそ成り立っている。田舎の町や村、というのは今でもそれが顕著で思い当たるふしがあるだろう。ところが、その必然性のないところでこの相互監視だけが生きている、これが今の日本なのだ。そして、その相互監視ということに常に無意識のうちにプレッシャーを受け、そこに絡めとられてしまっているのが大半の日本人である。

 ここまで書いてきたことを思い出して欲しい。日本における会社という組織ででの自己決定が難しいこと、津波の時ですら集団で行動してしまい、てんでんこにならない意識、福島での東電の対応、それにたいする官邸の動き、フェイスブックでの他人の目を異常なまで気にしながらの書き込みと承認、またはそのムラ社会的な生き方に必然のあった昭和へのノスタルジー、沖縄への憧憬、これらのことすべては相互監視ということが常に日本人の意識下に深く存在してのことだ。最近でも小沢グループが離党する土壇場で離党を止めた議員が何人かいたが、これも優先されたのは自己決定とは程遠い、意識下の相互監視に怯えるが故の行動であり、土壇場でマジョリティにつけば不安がなくなるということだろう。(そこには自己の責任回避ということも含まれる)

 でも、よく考えて欲しい。必然なき現在でそれになぜ怯えて生きなければいけないのか。前にも書いたが、お互いに他者を気遣って、先ず相手の気持ちになって、譲り合いの精神で、ほんとにそんな状況が目の前にあるだろうか。これは道徳の問題なのか。違う。すべてのことは必然か、否か、なのだ。

 なぜ、その美しい精神の日本が今そうでなくなっているのか。これは美しい精神が今必然ではない、と言いたいのだはない。ムラ社会が存在した時はそこで相互監視することで、互いを意識し(人の振り見てわが身を直せという言葉もあるとおり)いい方向に共同体をまとめ、自己決定しなくとも集団尊重ゆえに人を気遣い、相手の気持ちになり、ということが自然にできるのだ。まえにも書いたが宗教団体とはそれが有効に作用する。

 ところが、相互監視システムのデメリットは、その集団に属さないものには徹底的に排他的だ。村八分という言葉があるように、自己決定するなんてその中ではありえないのだ。ましや、共同体自体が個を守ることもできず(というかその共同体は幻想なのだが)ただ異物を排除する村八分だけが残っていたらそれはとてつもなく厳しい人間関係だけが存在することに他ならない。会社ですぐ派閥をつくり互いに牽制しあう、そんなことは日常茶飯事であろう。

 結論に入っていこう。もうお解りのように今のこの日本にはムラ社会はほぼ存在しない。存在しないのに形骸化されたシステムだけが残っており、それが今の日本人を未だに思考停止にし、そして苦しめている。そして、そこから抜け出る勇気すら、無意識にはびこっている相互監視への怯えに持つことができない。そして、震災の危機的状況にすら、自己決定もできずただオロオロするしかない。

 あれほどの日本における歴史的出来事、東日本大震災を経験したにもかからず、日本人はここまで書いてきたことに対し未だに無自覚だ。むしろ、この期におよんでもムラ社会が存在したあの時代に思いを馳せ、感傷に浸る。それはまるで幼児の時に肌身離さず持っていた古いぬいぐるみが捨てられないアダルトチルドレンのようだ。何度も何度も言うのだが、もはや必然なきところにその美しき共同体は存在しないのだ。もういいかげんに目を覚ましてほしい。

 では、一人一人はバラバラに切り離され、そこで自己決定して生きていけば好き勝手にやればいいのだろうか。そうではないだろう。日本における社会状況はいくらみんな仲良しといっても実はもうバラバラに個人は切り離されている。ムラ社会共同体がなければ当然だ。都会で一人暮らしして孤独になっている若者なんて今にはじまったことじゃないだろう。家族がいたって部屋に閉じこもってでてこない、なんてもはや当たり前だろう。家に帰っても居場所のない父親。死をまつしかない孤独な老人。バラバラに切り離されて、なんてもうとっくにそうなのだ。だから、それに無自覚ではいけない。自覚的になるからこそ自己決定の必然、それがでてくるのである。そして、自己決定した人間だからこそ、本当の意味での絆を必要とする。そこに生きているという証を互いに認め合う絆が生まれる。この真の絆が生まれるからこそ、そこに新たな人に対する気遣いや思いやりがまた意味をもって立ち現れてくる、というものだ。こういうことでしか、この21世紀の日本が再生していく道はない。

 必然なき、ということについて散々書いたが、最後に、ではこの現在の日本における必然とは、ということを考えたい。前述したが今、日本人が共同体のなかで生かされる自分を探すのではなく、バラバラに切り離された個から自己を決定していく、これこそが必然だ。社会が現状のようになった今、ありもしない共同体幻想を捨てるしか、日本人が目覚めることはできない。そして長い時間の中でこびり付いてしまった相互監視システムへのおびえを自覚的に乗り越えなければいけない。一人一人が、自覚的になって自己決定できるようになれば、僕は組織も変わるし、日本も変わると信じている。そしてそれは個人主義という生き方に息詰まっている西欧社会にもない、新しい個人主義、絆の重要性を腹の底で解っているが故の個、その自覚的個が自覚的にまとまって一つの動きをし、また己に戻り、ということができる人たちの集まり。そんな日本になっていかなければ。

 長々と今回は書いてしまったが、震災から一年以上経った現在、日本は表向きはまた平穏な日常を取り戻したか、のように見える。そして、そこで暮らす人々も徐々に震災でのことを忘れることによって、またなにも変わらないように見える日々に埋没していっているようだ。ただ、実は社会の状況は自明のことが自明でなくなるほど、ここ20年あまりで大きく変わっている。それなのに日本人はそれにあまりにも無自覚だ。無自覚故に、この国では本来進むべく道を誤っていても修正もできず、ただ諦観だけが蔓延している。震災はそんな日本に目を覚まさせる契機にしなくていいのか。それはあの時以来、僕が僕自身に常に投げかけている問題でもある。それを、自分として一度まとめておきたかった、というのが今回のこの文章だ。だから、一個人である先ず自分がそのことをはっきり自覚し、次を考え、そして発言をする、それがこの地に生まれ生きるものとしてやるべきことだと、あらためて思うからである。それが僕にとっての必然、だからでもある。

 21世紀、震災以降、僕らが在るべき姿、その必然とは何か。このことをさらに考えていくしかこの国、僕らの未来はない。思考停止した先にはくるべき未来などない、からだ。

 

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