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2013年9月

奥村盛人監督「月の下まで」を見て

 リア充というネット上から使われるようになった言葉がある。現実世界でリアルな充実した実感ということなのだろう。つまり、アニメなどの二次元にしか充実を感じられない人たちが実は現実世界でも充実したい、という願望が言葉になっているのだが、そもそもその現実世界でリアルなことを実感する、ということが希薄になっているのが今、である。逆説的に言えば、だからこそ現実世界に愛想をつかし二次元に充足感を求める若者たちがいる、ということも言える。

 人間がリアルな充足感を得るためにもっとも原初的で手っ取り早い方法は狩猟である。自分の手で獲物と格闘し、そして捕らえる。手を使い、手から伝わる充足感、これに勝るリア充はないのだ。だからこそ現代社会の中でリア充な職業は、漁師が一番ではないか、と思う。日々、魚を取る、ということで満たされる何か、生きている、という実感、そのむき出しの欲望が満たされるのなら男たちは何かを失っても海へ出て行く。

 奥村盛人監督の「月の下まで」という映画は、そんな男の話、だ。土佐の漁師である彼を取り巻く陸での現実はとても厳しい。嫁に出て行かれ、知的障害者の息子と母親との決して裕福ではない暮らし。さらに追い討ちをかける不幸な出来事、現実はこれでもかと辛くのしかかる。

 なにも変わらない日常、閉塞感のある小さな港町、逃げたくても逃げられない状況が美しい海の風景と対照的に描かれる。ある意味、主人公の男にとってリアルな現実が陸にはあり、そこから逃げるように出て行く場所が海である。海には陸で満たされないもの、リア充が男にはある。手から伝わる生きている実感。しかし、海に出るたびに男は陸でのリアルな現実に引き戻され帰るしかない。そして苛立ち、常に不機嫌な男、その横で常に無邪気に笑っている知的障害者の息子。

 奥村はこんなに閉塞した状況を、ただ淡々と特別な出来事もなく見せていく。しかし、その一つ一つの小さな出来事がまさに日常であり、それをどう自分の中で対峙していくかで人生というのは大きく変わっていく、ということを問いかける。この主人公の男が終始苛立って自棄になっていくのも、この陸の現実と上手く対峙できないからに他ならない。

 この物語は最後には一つの着地点に向かうのだが、それは現実が変わって救われるということではなく、何も変わらない現実をただ男は受け入れる、ということで静かに終わる。月の下、というのはその男がすべてを受け入れた時に初めて理解し、自分の母親もこの話にでてくる少女も皆、受け入れる、ということを自覚して見える場所、なのだろう。ここではないどこか、を夢見るのではなく、ここ、を受け入れるからこそ見える場所がある、奥村が導いた結論、それが月の下、なのだ。

現実の世界をありのまま受け入れる、それは多くの傷もいっしょに背負い込むということで覚悟を決めなくてはだめだ。逆にリア充を求め、別の世界に逃げようとする、それは実は決して満たされない堂々巡りの世界であり同じことの繰り返しだ。だからこそ目の前のすべてを受け入れる、そこからしか月の光射す希望は見えてこない。

初監督作品にして、この現代社会を鋭くそして柔らかに描写した奥村監督の覚悟と知性に圧倒された作品であった。

 

2013 919

 

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