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2014年6月

ジャズ50バカその13

13. 若いのに老成してまとまった、ある意味優等生なジャズを演奏しているバカ

 

 

 ジャズを演奏する、ミュージシャンたちはどういう意味で考え、どういう捉え方をして対峙しているのだろうか。それはやはり、過去の偉大なジャズミュージシャンが対峙してきた姿勢を見るのが一番だろう。

 何度も僕は言い続けているが、マイルスというのは、そのジャズを体現してきた第一人者であると僕は思っているし、その彼の姿勢こそがジャズだと信じて疑わない。もちろん、パーカーだってエヴァンスだって、エリントンだってガーランドだって、マルサリスだって皆、ジャズをジャズとして成り立たせている人々である。ただ、マイルスほど、ジャズという概念を人生で体現した者はいないのではないか、いや、時代の中でジャズのあるべき姿を追い求めた姿勢というのか、彼の生き方がジャズではないか、と僕は思っている。

 なぜなら、一番最初にマイルスに触れた項を書いたのだが、そこで僕が言ったマイルスとは、壊して進む、という一言で説明したように既存の世界をぶち壊して新たな世界を開いていく姿勢こそ、ジャズだ、と僕は思うからだ。

 つまり、ジャズの歴史を紐解けば、白人の世界に奴隷として連れてこられた黒人がアンチテーゼのごとく始めた音楽に起因し、そしてダンスミュージックとして成り立っていた音楽に踊れないモダンジャズ、バップを作り出し、そしてそのバップに飽き足らず、モードへ、フリーへ、そして様々なスケール、和声へと進化していったのが、雑に簡単に説明するところの流れである。それは、当然だが、既存の音楽を壊して新しいものを作り、それをまた否定して新しい世界へ、という繰り返しなのだ。

 考えてみれば、当たり前のことである。マイルスはまさに人生でそれを体現したのだが(バップからモード、そしてフリー、ファンク、ロック、ヒップホップまで一人のミュージシャンが歴史の中で体現したのは彼以外いまい)、芸術とは本来そういう行為であろう。マイルスと同じようにひとりでそれを体現したのはピカソがまさにそうであるように、既存のものを壊して進む、ブレイクスルーなくして芸術など有り得ない、と言い切っていいと思う。

 そして、ジャズがジャズたる意味というのは、まさに既存のモノに対してのアンチテーゼでありそこから生み出される熱や衝動、そして新たな地平というのもだろう。それを目指すからジャズミュージシャンではないのか。

 ところが、だ、若い20代のミュージシャンがまったく挑戦も追求もなく使い古された語法でバップをなぞるようにやっている。もちろん、そうじゃなく自分なりの世界を追求している奴らもいるのは知っているが、ほんと、お前らいくつだ、というような老成しきったオーセンティックなジャズを20代のミュージシャンの演奏で聴かされると、いったいなんのためにジャズをやっているのか、と問い詰めてみたいのだ。

 そこには、若者特有の発露もなく、熱もなく、挑戦する青臭さもなく、ただ死臭のただよう古臭くてカビの生えたような、手垢で汚れたようなフレーズ満載で、馬鹿じゃなかろうか、と僕は思うね。お前ら、どんなに頑張ったってガーランドにもなれんし、パーカーにもなれんのだ。ウェスの足元にも及ばんし、ロリンズ、ゲッツに絶対に並ぶこともできないんだよ。

 当然だ、だって一生懸命真似事したってね、どんなに頑張ったって二番煎じだろ。もちろん、勉強にコピーして完全にものにしてから自分らしい世界へ、というのは解からんでもない。だけどね、だいたい、聴いていると同じようなフレーズ弾いたり吹いたりして、本人は偉大な先人と同じ気になって酔ってるだけなんだよな。

 そこには、何度も言うように、既存のものをぶち壊す情熱も迫力も、青臭い若者特有の意地もなにも感じないのだ。ただ、あるのは真似事に過ぎない、ちょっとお上手なジャズっぽいもの、それだけだ。

 いや、いずれ、彼らも見つけるさ、若いからそれでいいんだ、という声もあるだろう。僕はそうは思わない。初めに強い意思で、こんなジジイたちの世界なんか糞くらえだ、俺が世界を変えてやる、って奴がジャズを、新たな地平を切り開くもんなんだよ。だって、先人たちを見ろよ。みんな、それをやって偉大なミュージシャンなんじゃないか。マイルスじゃなくても、エヴァンスだって、パーカーだって、メルドーだって。違うかい?それとも、若くして古き良きジャズ保存協会として生きる覚悟でやっています、とでもいうのか。それなら僕は文句は言わんがね。

ジャズ50バカその12

12. ジャズ雑誌のCD評ばかり気にして購入するバカ

 

今更という感もあるが、もう廃刊になった某ジャズ雑誌のゴールドディスクなる選定、これがかなりの長いことジャズのレコード、CDの評価の中心となり売上を左右させるぐらいの権威となっていた時代があった。当然、ゴールドディスクだから、といって鵜呑みにして購入して、ゴールドディスクだからこれはいいのだ、と思い込んでいた人たちがたくさんいたのだが、これがかなり胡散臭い基準で選定されていたのは、今では周知の事実だろう(たぶんね)。

 つまり、この某雑誌の広告にどれだけレコード会社、またはそのCDの本人が金をだしたか、それによって選定されていた、というのは有名な話なのだ。まあ、廃刊前の某雑誌で見開きの大広告打っているミュージシャンのCDは必ずゴールドディスクであった。まあ、そんなことしていたから結局廃刊になるのだろうが、それにしてもよくあんなインチキが権威になっていたのか、と思うとそれが日本のジャズ評論のレベルの低さなんだろうと思わざる得ない。

 そりゃそうだろう、金多く出したのをゴールドディスクにするのなら、そんなもの評論でもなんでもないし、実際なんでこんなレベルの低いものがと思うのがやたらめったらゴールドだったのだから。もちろん、ちゃんとしたものにゴールドというのもあっただろうがね、結局のところ、これはジャズに限らず、クラシックでも映画でも資本主義の世では、まともな評論なんてものはできないということなのか、とすら思ってしまう。

 というか、音楽なんて聴き手がいいか、悪いかだけであって、先ず聴いてみて自分がどう感じるかが一番だろう。人の評価なんてどうでもいいっちゃあ、どうでもいいはず。ところが、これはゴールドディスクだから、といっただけで「これはいいに決まっている」と思って聴いちゃう人がいるんだねえ。

 僕としては聴く必要がない、と最初からいえるものは絶対にない、と思っている。人がどう言おうと自分が聴いてみてどうか、なのであって、聴かないうちはどんな評論も鵜呑みにしないよう肝に銘じている。実際、これは素晴らしい、と言っていたので聴いてみたら自分としては超つまらないもの、逆にこれはたいしたレベルではない、と評論家が言っていたものがずっと宝物のようなアルバムになった、というものもあるからだ。

 僕がサラリーマンだった頃、僕の勤めていた会社の社長が僕に尋ねてきたことがあった。僕が会社の中でクラシックが好きだというのを知って(ジャズだけではなくクラシックも僕はかなり好きで聴いている)、昼休みに呼び出されて言われたのだがそれは「君、今度チャイコフスキーの5番のCDを買いたいのだがどれがいいのかね」という内容だった。僕は「どれが、と言われましてもご自分でお聴きになっていいと思わるものがいいのではないかと・・」と言うと社長は「それがわからんから聞いているんじゃないか、どれがいいんだね」ときた。じゃあと、これこれの指揮のこれこれのオーケストラの5番はどうでしょうと勧めると、そうか、と言ってメモを取った。

 それから何日かたって、また社長が僕のところにきて「君、この前勧めてくれたあのCD買ったのだがね、そのあとクラシックのガイドブックをみたらあれはダメな演奏だって書いてあったぞ、なにを勧めるんだね」と怒っていた。

 こういうバカがいるのだ、本当に。ただ権威だけを鵜呑みにして、自分の趣味の世界ですら良い、悪いもわからず「これはいいものだからいいのだ」とそれだけで安心する。あの社長は本当にバカだが、ある意味可哀想な人でもあった。自分で心からいいと思えるもの、それを一生知らずに生きていくのだろうから。

 つまりこれこそ、日本人的なんだろうとも思うのだが、結局、趣味の世界ですら周りの目を気にして、これは皆がいいといっているからいいんだよね、と、おどおどしているような人が多すぎる気がする。ゴールドディスクとはそんな日本人にうまくマッチしたシステムだったのだろう。某雑誌廃刊後もやはりCD評が気になって仕方がない人がたくさんいるだろう。自分で決めなくても、これは間違いないと太鼓判おしてくれて、さぞかし安心なんだろうねえ。ああ、くだらねえ。音楽ぐらい自分の我を通したって良さそうなものなのに。

 結局、国民性ってこんなところにまで影響しているわけで、僕が一番嫌な部分でもあるのだ、集団、組織の意思優先で、自己決定が希薄な日本人的生き方ってやつが。みんなで同じもの聴いてみんなでそれをいいと言う、そうしてりゃあ誰からも後ろ指差されないで安心安心、常にマジョリティ側にいないとね。ゴールドディスクはその象徴、透けて見えるぜ、ああバカバカしい。

ジャズ50バカその11

11. ジャズは先ずバップが演奏できないとダメだね、とミュージシャンでもないのに偉そうに言うバカ

 

 先に説明するがビ・バップ、通称バップというのはモダンジャズの始まりのジャズの演奏様式である。つまり、モダンジャズ全盛の1940年代から1960年代ぐらいまで頻繁に行われたジャズの形態なのだが、当然ジャズの基本というのはあながち間違いではないだろう。

 なぜなら、その後のジャズ、例えばモードやフリーや現代のジャズも確かにバップがマンネリ化して、さらに違う表現形態を追求したもの、だからだ。そして、その過渡期にあったミュージシャンたち、エヴァンスでもマイルスでも、キースでもチックでも、みんなバップの洗礼を受け、その後バップではない表現を見つけていったのだ。

 だからだろうけど「やっぱりね、バップをちゃんと弾けないやつがほかの事やったって、そんなジャズはダメだね」というオヤジたちは多い。まあ、そういうことを言って、なんか威張ってみたいのだろうが、果たして現代のミュージシャンにもそんなこと言っていいのだろうか。

 先ほども書いたが、バップがマンネリ化した過渡期のミュージシャンたちは、バップ演奏に飽き足らずにほかの表現にいくわけでね、今の若いミュージシャンはもうエヴァンス以降、というかバップ以降の演奏様式からジャズに入っている人もたくさんいるのだ。そういうミュージシャンたちは当然バップを上手に演奏することより、もっとほかの表現を模索して、新しいジャズを作ろうとしているわけ。だから、今更バップを上手に演奏しようとは思っていないのだよ。

 そういう人たちにさ、またもやバカの一つ覚えのように「バップがちゃんとできないと」なんて偉そうに言う輩がいまだに多いのだから始末に負えない。

 個人的な思いを言わせてもらえば、バップはジャズの通過点に過ぎず、今のジャズミュージシャンが演奏する必然を僕は感じない。だって、明らかにバップはやり尽くされてマンネリ化して、誰がやっても同じようになっていったからエヴァンスもマイルスもコルトレーンも新しい表現を求めたわけ。それを、なぜ21世紀にもなってまだバップなんだか。いや、バップが好きだからバップをやり続ける、というミュージシャンはいいけどね、現代のジャズミュージシャンがオリジナルな表現のためにバップではないジャズを演奏しているのに、バップも弾けないくせに、とバカオヤジどもが楽器も弾けないくせに言い続けているのはほんと失礼な話である。

 まあ、その弾けないくせにって言われているピアニストが「じゃあ、バップやってみましょうか」って演奏したらけっこう弾けるのかもしれない。でもね、それはバップが弾けるか、弾けないか、でその人の技量を測るのではなく、その人の表現したいものがどうか、そのためのテクニックは十分かどうか、ということでしょ。表現したい方法がバップじゃなければバップをうまくできなくたって別にいいのよ、当たり前の話なんだけどね。

 これも、ほかの項で書いていることと一緒になるが、バップ、バップとオヤジどもがわめくのは、結局てめえらがバップしか知らない、解らない、楽しめない、ということに尽きるのだ。だから、新興勢力のほかのジャズ表現を目の敵にして、そういうことを言って溜飲を下げるという、程度の低いお話なのである。

 日本のジャズの不幸はつまるところ、この手のバカオヤジどもに問題がある、と僕は思うがね。

 

ジャズ50バカその10

10. ジャズは歴史聴きするべき、と今でも初心者に勧めるバカ

 

 ジャズの歴史聴き、お解りだろうか。ジャズを古い順から聴いていく、ということなのだが、よくジャズのガイドブックなるものを見てみるとよく解る。ジャズの歴史に沿って一番古いものから現代に向かってその時代の代表的なアルバムが紹介されているはずだ。

 または、たとえばマイルス・デイヴィスなら最初のリーダーアルバム、クールの誕生から順にウォーキン、クッキン、ラウンド・アバウト・ミッドナイト、カインド・オブ・ブルー、(たくさんあるので、端折る)マイ・ファニー・ヴァレンタイン、ネフェルティティ、ビッチェズ・ブリュー、オン・ザコーナー、デコイ、ドゥ・バップまで、みたいに、とにかく時系列順に古い方から聴いていくことを歴史聴きと言うのである。

 これ、たしかにジャズがどう発展していったか、もしくは、一人のミュージシャンがどのように音楽的変遷を辿ったか、というのを理解するにはとてもいい聴き方だとは思う

 ただね、ジャズを初心者が聴くときに、この現代でこんな教義的聴き方って硬っ苦しいというか、お勉強的で、若い人がジャズ離れしちゃう原因のひとつにもなってる気がしてならないのよ。

 だってね、今や、ジャズってどこから聴いたっていいのであって、それがその人にとってのいい音楽体験なんでね、ジャズはそれじゃあ理解できない、というようなものじゃないんだと思う。

 それに、歴史聴き勧めるオヤジって、だいたい実は現代のジャズなんてところまでは聴いてなくてさ、マイルスの最後のアルバムあたりなんてろくに聴いていないくせに、バカの一つ覚えのように「マイルスはクールの誕生から聴かないと」と言うのだ。

 それはなぜなのか、と言えば、自分がそういう順番に時代のなかでマイルスなり、ジャズを聴いていったからでね、その自分と同じ音楽体験をしないとジャズはわからんよ、という個人的奢りとちっちゃな自意識を必死に守る、という(ほかの項でも同じこと書いているが)つまらん見栄に過ぎないと僕は思うね。

 だいたい、その同時代にタイムリーで聴くというのはさ、今の若い人には無理なことであって、しかもジャズ自体は今でも実は進んでいる音楽であってね、今の人間には今の時代精神じゃないと理解できないこともあるわけ。当然、その当時の時代の空気が解らないとその当時の音楽をパーフェクトに理解することはできない、という裏返しでもある。だからこそ、歴史聴きを勧めても、その当時にジャズを聴いてきた人と今、追従して歴史順にジャズを聴いても同じ感覚になれる訳はないと僕は考えている。

 僕としては、まず最初にジャズを聴いたことのない人に聴いてもらいたいのは、今のジャズだ。この現代に現代人としてやっているジャズを聴いて、今僕らが抱えているなにかを、ジャズを通して感じて欲しいのだ。

 なぜなら、50年前だって、当時の若者はその当時のジャズからそういう煮えたぎった時代のどうしようもない感情をジャズを通して感じていたはずだから。そして、だからこそジャズは生きた音楽として、その時代に存在したんだ。

 それを、歴史聴きみたいことにこだわってしまっては、ジャズはたんなる伝統芸能になってしまってね、過去の演奏が保存されているアーカイブからただ取り出して鑑賞するという老人の楽しみに化してしまうのだよ。

 ジャズとは、ということは何度も僕の考えをこのジャズバカで書いているが、とにかく今の表出、それに尽きると僕は思っている。だから、歴史聴きなんてクソくらえ、でいいのだ。マイルスも、チャーリーパーカーも知らなくたっていいじゃない、最初は。菊地成孔にグッとくる若者がたくさんいると思うけど、ジャズをお勉強しながらチャーリー・パーカーからマイルス、エヴァンスなんて順で聴いていくより、その方がジャズを今体感していると僕は思う。今、現代のミュージシャンがジャズをどう考え、ジャズで何を表現しようとしているのか、それを聴くのが今を生きる人間のジャズ体験、というものではないのか。

 もちろん、今のジャズから興味を持って歴史を知ろうとするのは悪いことではない。また、たまたま出会ったのがエヴァンスのジャズで、それから現代のジャズまで興味を持つのもいい。そう、人によって音楽なんてどう聴いたって自由なもの、というのが当たり前だが結論。そして、歴史聴きなんて教義的なジャズ体験より、僕としては先ず、今のジャズを聴いてジャズってかび臭いものじゃない、実は新鮮な生々しいものなんだ、ということをこれから聴く人に解ってほしい、それが僕の本音だ。

 

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